ジーコ(ZICO)
フルネーム アルツール・アンツネス・コインブラ
国籍 ブラジル
出身地
生年月日 1953・3・3
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1995〜02 鹿島アントラーズテクニカルディレクター(日本)
1998〜98 ブラジル代表テクニカルディレクター
2002〜06 日本代表
2006〜08 フェネルバフチェ(トルコ)
2008〜09 ブニョドコル(ウズベキスタン)
2009〜09 CSKAモスクワ(ロシア)
2009〜10 オリンピアコス(ギリシャ)
2011〜12 イラク代表
2014〜   ゴア(インド)
獲得タイトル 04AFCアジアカップ
06/07トルコリーグ
現役時代はブラジル代表の中心選手として3度のW杯に出場。1982年大会ではファルカン、T・セレーゾ、ソクラテスと「黄金の中盤」を形成し、「白いペレ」の異名をとる名手でした。クラブではフラメンゴでインターコンティネンタル杯を獲得し、欧州ではウディネーゼに在籍しました。
一度引退しますが、住友金属(現鹿島)からオファーを受け現役に復帰して弱小クラブのJリーグ入りに尽力します。開幕戦ではハットトリックを決めるなどチーム力を大幅に上げました。

パスをつなぐポゼッションサッカーを好み、技術や創造性、応用力といった個人能力を重視します。また、選手との信頼関係を大切にするためレギュラーを固定する傾向があります。
フォーメーションは、Jリーグで広く採用されている3−5−2と攻撃重視の4−4−2を併用します。試合中の選手交代ではCBを一人外し、攻撃の選手を入れて4バックにします。

2002年に韓国との共催で行われた日本でのW杯後、フィリップ・トルシエ監督の後任として日本代表に就任し、10月16日ジャマイカ戦で初采配を振るいます。中田英、中村俊、稲本、小野のいわゆる「黄金の中盤」を起用しましたが、1−1のドローに終わりました。
2003年4月のアウェー韓国戦は、初召集の永井雄が終了直前に得点を挙げ、監督として初勝利を挙げます。しかし6月のアルゼンチン戦で4−1と完敗し、秋田や名良橋らDFラインを総入れ替えして宮本を復帰させました。同年のコンフェデ杯はグループリーグで敗退しました。
8月20日のナイジェリア戦、相手がメンバーを落としていると揶揄されたものの、高原の2点などでホーム初勝利を挙げます。12月の第1回東アジア選手権は韓国にタイトルを許しました。
2004年からW杯への予選が始まります。思わぬ苦戦を強いられながら勝利を重ねますが、タレントが多く前評判がよかっただけに、ストレスのたまる試合内容に各方面から批判が続出しました。しかしその後の海外遠征ではベストメンバーのチェコやイングランドと好ゲームを展開し、勢いに乗ってアジア杯へ。中国で開催されましたが、当時の国際情勢の悪化した状況、酷暑、中田英不在などベストではない布陣と悪条件が重なりましたが、中村のテクニカルな左足シュートや、ヨルダン戦での川口の神がかり的なPKストップなどがあり、2大会連続でアジアの頂点に輝きました。同年のアウェーのオマーン戦でW杯1次予選通過を決めました。
2005年、北朝鮮戦で召集されたばかりの大黒が終了直前に得点を挙げ、幸先のいいスタートを切ったのを皮切りに安定した戦いを続け、世界最速で3大会連続のW杯出場を決めます。コンフェデ杯は再びグループリーグ敗退となりましたが、欧州王者のギリシャに勝利を挙げ、ブラジルと引き分けるなど試合内容そのものは悪くはありませんでした。
第2回東アジア選手権では、中国戦と韓国戦でサブのメンバーを先発起用する奇策を見せましたが、タイトル獲得はなりませんでした。
2006年5月15日のメンバー発表は、自身の政権で最多得点の久保や、フランスでレギュラーを張る松井を落選させるなど実績を重視してきた過去の人選にそぐわない内容だったため、議論をかもしました。一方で国内で奮闘する巻を選出して周囲を驚かせました。
本大会の初戦オーストラリア戦は中村の得点で先制したものの、追加点が奪えず終盤のわずかの間に3失点して逆転負けを喫し、クロアチア戦では酷暑も響き決定力不足によるスコアレスドローに終わります。ブラジル戦では玉田が先制点を決めて先発起用に応えましたが、その後ロナウドらに4点を決められ、グループリーグ敗退となりました。
日本代表を辞めた後はトルコの強豪フェネルバフチェを指揮し、クラブ初采配ながらリーグ制覇を果たします。07/08シーズンはチャンピオンズ・リーグ出場を見据え、念願だったR・カルロスの獲得に成功。エースのアレックス、M・アウレリオ(トルコに帰化)といった攻守の核に同胞がそろい、クラブ史上初のベスト8進出を果たしました。
2008年よりウズベキスタンのブニョドコルへ就任。ここでも自らの意思を反映できるリヴァウドを擁しますが、AFCチャンピオンズ・リーグでは準決勝で敗退しました。
その後C・モスクワに就任しますが、1年経たないうちにギリシャへ渡ります。チャンピオンズ・リーグではグループリーグを突破するものの解任され、わずか4ヶ月の短命に終わりました。
2011年にイラク代表に就任します。W杯予選では日本とオーストラリアの2強を追い、本戦出場も狙える位置にチームを導きますが、給料未払いによりやむなく辞職しました。
2014年にインドリーグに参戦しています。
※:リオデジャネイロ
2006年7月1日:新規アップ 2014年9月4日更新


04日本代表(アジア杯優勝)
玉田圭司 鈴木隆行
  中村俊輔  
アレックス 加地亮
遠藤保仁 福西崇史
中澤佑二 田中誠
  宮本恒靖  
  川口能活  

06日本代表(W杯出場)
高原直泰 柳沢敦
小笠原満男中村俊輔
福西崇史中田英寿
アレックス加地亮
宮本恒靖中澤佑二
 川口能活 

07/08フェネルバフチェ(CLベスト8)
 ケズマン 
 アレックス 
ウーウル・Bデイヴィッヂ
M・アウレリオマルドナード
R・カルロスギョハン・G
エドゥルガノ
 V・デミレル