吉田 孝行(Takayuki YOSHIDA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 吉田 孝行(ヨシダ タカユキ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 兵庫県川西市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1977・3・14 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 174cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 67kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(CF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | |||||||||||||||||||||||||||||
代表背番号 | |||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | タカユキ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 14Jリーグ功労選手賞 | ||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 98天皇杯 | ||||||||||||||||||||||||||||
00ファーストステージ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
95 横浜フリューゲルス | 28 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
96 横浜フリューゲルス | 2 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
97 横浜フリューゲルス 15 | 21 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
98 横浜フリューゲルス 9 | 20 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
99 横浜F・マリノス 19 | 14 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
00 横浜F・マリノス 11 | 7 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
00 大分トリニータ(J2) 31 | 20 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
01 大分トリニータ(J2) 11 | 41 | 15 | |||||||||||||||||||||||||||
02 大分トリニータ(J2) 9 | 41 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
03 大分トリニータ 9 | 29 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
04 大分トリニータ 9 | 30 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
05 大分トリニータ 9 | 28 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
06 横浜F・マリノス 17 | 27 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
07 横浜F・マリノス 17 | 22 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
08 ヴィッセル神戸 17 | 30 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
09 ヴィッセル神戸 17 | 29 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
10 ヴィッセル神戸 17 | 21 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
11 ヴィッセル神戸 17 | 29 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
12 ヴィッセル神戸 17 | 19 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
13 ヴィッセル神戸(J2) 17 | 12 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
豊富な運動量での献身的なプレス、攻撃的なポジションを複数こなすユーティリティ性、さらにリーダーシップも備えており、どの監督からも重宝される選手です。 兄の影響を受けて小学4年の時に上牧スポーツ少年団に入って本格的にサッカーを始めます。当時からストライカーとしてプレー。マラドーナに影響されて巧みなドリブルからチャンスを作ったり点を取ったりするスタイルをこの頃には確立させていました。 その実力は入団当初から年上の試合に出場するなど卓越しており、高校は強豪滝川ニに入学。後にJリーグのクラブで指揮を執ることになるエンゲルスコーチからも指導を受けて成長、2年間は神戸弘陵の前に高校選手権を逃しましたが、最後のチャンスとなった3年時に出場、波戸と共にチームをけん引しますが、ベスト4になる滋賀の守山北に敗れています。 卒業後に横浜Fに入団し、1995年4月8日清水戦でJリーグデビューを果たします。29日名古屋戦では早くも初ゴールをマーク。ジーニョ、エヴァイール、前園といった攻撃陣の間隙を縫うように初年度より28試合と多くの出場機会を獲得しました。 しかし翌シーズンには早くもプロの壁に当たり2試合の出場にとどまり、その後もレギュラー獲得とは行きませんでしたが、天皇杯では結果を残し、97シーズンは4試合で3点、横浜Mとの合併が発表された98シーズンには5試合で7点、特に決勝ではクラブ最後の点を取りました。 横浜FMではエースの城、韓国代表ユ・サンチョルのFW起用などもあり出場機会を得られず、シーズン途中でJ2大分に移籍します。そして石崎監督の下で輝きを取り戻し、2年目にはチーム2位の15点をマーク、3年目も41試合で9得点を挙げ、悲願の1部昇格を果たします。 これにより古巣横浜FMに6年ぶりに復帰、さらに08シーズンには地元神戸に移籍し、エース大久保とのコンビネーションを深めます。10シーズンは4点だけでしたが、アウェーのG大阪戦、そして最終節アウェー浦和戦での2点でチームを残留に導く勝負強さを見せました。 キャプテンになった11シーズンの序盤は得点に恵まれませんでしたが、甲府戦での2得点を挙げると、続く浦和戦でも直前に急逝した盟友の松田に2得点を捧げるなど合計9得点と活躍し、クラブ史上最高の9位に貢献します。翌シーズンは都倉や田代などの陰に隠れて出場試合が20を割り込み、チームもJ2降格となります。13シーズンは新加入のポポや小川慶の成長でベンチスタートが多くなって引退を表明し、最終節で現役最後の得点を決めました。 その後はクラブのアンバサダーに就任しています。 1993年のU−17世界選手権で3試合戦いベスト8に進出。1996年アジアユースでは8試合6得点で翌年のWユース出場権を獲得しましたが、本大会をケガで棒に振りました。 代表記録 2010年8月19日:新規アップ 2014年10月21日更新 |