吉田 麻也(Maya YOSHIDA)
フルネーム 吉田 麻也(ヨシダ マヤ)
国籍 日本
出身地 長崎県長崎市
生年月日 1988・8・24
身長 189cm
体重 80kg
利き足
ポジション DF(CB)
FK PK  
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 2010・1・6
イエメン戦
代表背番号 22
W杯メンバー 14年 18年
ニックネーム マヤ
個人タイトル  
チームタイトル 11AFCアジアカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
07 名古屋グランパス 34 19
08 名古屋グランパス 34 22
09 名古屋グランパス 4 30
09/10 VVV(オランダ)
10/11 VVV(オランダ) 3 20
11/12 VVV(オランダ) 3 32
12/13 VVV(オランダ) 3
12/13 サウサンプトン(イングランド) 3 32
13/14 サウサンプトン(イングランド) 3
14/15 サウサンプトン(イングランド) 3 22
15/16 サウサンプトン(イングランド) 3 20
16/17 サウサンプトン(イングランド) 3 23
17/18 サウサンプトン(イングランド) 3 24
18/19 サウサンプトン(イングランド) 3 17
19/20 サウサンプトン(イングランド) 3    
日本屈指の身体能力を持ち、セットプレーでの得点力や長いリーチでのボール奪取、正確なフィードが武器です。技術や戦況を把握する力もありますが、致命的なミスも散見されます。
明るい性格で、頻繁に更新されるブログも注目を集めています。

7つ年上の兄の影響を受け、小学2年でサッカーを始めます。中学に入るまではプロになることさえ考えていませんでしたが、小学6年の時に兄がインターネットで名古屋ジュニアユースの入団テストを見つけます。愛知県にいる親戚に生まれる子供を見に行くついでにという半ば軽い気持ちで臨みましたが、受験した約70人から合格した4人の中に入りました。
2006年の全日本ユースでは主将として準優勝に貢献し、トップチームに昇格。それまではアンカーでしたが、チーム事情でCBにコンバートされます。2007年5月3日大分戦でJリーグにデビューしますが、腰痛もあり19試合の出場に終わりました。2年目も開幕スタメンになりますが、第17節磐田戦でポジショニングを誤り、五輪代表でチームを離れたことも重なりレギュラーの座を失いました。しかし8月23日鹿島戦で初得点を挙げるなど最終的には22試合に出場しました。3年目は背番号4になり、リーグで30試合4得点、ACLでも11試合に出場して川崎戦などの2得点で準決勝に進出。天皇杯でも1点決めて準優勝と成長の跡を見せました。
09/10シーズン、本田圭に続きVVVに移籍します。しかしすぐに左足の甲を骨折して1年目を棒に振りました。2年目の10月30日フローニンヘン戦でオランダリーグにデビューし、3戦目以降スタメンに定着。以降不動の存在となり、2年目はPSV戦のバイシクルやNAC戦でのカレンとの得点など自己最高の成績を残し、チームの1部残留に貢献しました。
12/13シーズン開幕後、五輪での活躍によりサウサンプトンに引き抜かれます。初出場となった9月15日アーセナル戦では、ジェルヴィーニョに裏を取られるなど6失点と洗礼を浴びましたが、その後はスタメンに定着してプレミア残留に成功しました。2年目はクロアチア代表ロヴレンの加入やケガで出場機会が大幅に減少しましたが、ウェストハム戦でプレミア初得点を挙げました。3年目も新加入アルデルワイレルドとの兼ね合いでクーマン新監督からSBに起用されるなど新境地を開き、エヴァートンとのホームゲームではダメ押し点を決めました。4年目も先発したウェストハム戦で決勝点を挙げるものの、レギュラー定着には至りませんでした。
5年目は出場こそ23試合でしたが、ピュエル新監督のプランに不可欠な存在となりました。6年目は岡崎に点を入れられるなど4失点した試合で一矢報いました。終盤のエヴァートン戦では入団以来初めて退場しますが、辛くも降格を回避しました。

2008の北京五輪ではオランダ戦に出場。水本、森重、長友との4バックでオランダの攻撃を1点に抑えますが、すでにグループリーグ敗退が決まった後の試合でした。
アジア杯予選となる2010年1月6日イエメン戦でフル代表デビューし、ザッケローニ新監督により本大会ではレギュラーにとして5試合に出場。ヨルダン戦の終了間際に同点弾を挙げますが、準決勝カタール戦で退場処分を受けました。韓国戦の勝利を見届けた後、オーストラリアとの決勝で復帰して相手の猛攻をしのぎ、2大会ぶりの優勝を果たしました。
2012年ロンドン五輪にオーバーエージで参加し、主将を任されます。7試合戦ってエジプトとの準々決勝で追加点を挙げ、ベスト4の原動力となりました。
2014年W杯予選は本拠北朝鮮戦で決勝点を挙げるなど11試合に出場。2013年コンフェデ杯ではブラジルやイタリア、メキシコの前に3連敗に終わりました。W杯ではケガ明けながら3試合フル出場しますが、ジェルヴィーニョやハメスの決定力に屈しました。また、高さを活かしてパワープレーを試みるものの決定機にはつながりませんでした。
2015年アジア杯でもレギュラーとして4試合に出場しました。ハリルホジッチ監督の下、2018年W杯予選はチームでただ一人全18試合に出場。その後西野監督の下でも本大会で全4試合に出場し、日本2大会ぶりのベスト16進出に貢献しました。
長谷部が引退した後に主将に就任します。2019年アジア杯は6試合に出場しますが、カタールとの決勝で3失点し、2大会ぶりの優勝を逃しました。
代表記録

2013年10月15日:新規アップ 2019年6月7日更新