ユ・サンチョル(Sang Chul YOO) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | ユ・サンチョル(柳想鐵) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 韓国 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | ソウル | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1971・10・18 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 184cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 78kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(CMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ 代表 | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1994・3・5 アメリカ戦 |
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代表背番号 | 6 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 98年 02年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 98Kリーグ得点王 | ||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 98,06Kリーグ | ||||||||||||||||||||||||||||
00,04ファーストステージ | |||||||||||||||||||||||||||||
03セカンドステージ | |||||||||||||||||||||||||||||
03,04Jリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
94 蔚山現代 | 20 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
95 蔚山現代 | 26 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
96 蔚山現代 | 2 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
97 蔚山現代 | 7 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
98 蔚山現代 6 | 20 | 14 | |||||||||||||||||||||||||||
99 横浜F・マリノス(日本) 8 | 22 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
00 横浜F・マリノス(日本) 8 | 22 | 17 | |||||||||||||||||||||||||||
01 柏レイソル(日本) 8 | 24 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
02 柏レイソル(日本) 6 | 9 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
02 蔚山現代 66 | 8 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
03 蔚山現代 6 | 11 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
03 横浜F・マリノス(日本) 2 | 17 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
04 横浜F・マリノス(日本) 8 | 19 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
05 蔚山現代 6 | 12 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
06 蔚山現代 6 | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
戦術眼とパスセンスに優れ、豊富な運動量と闘争心、硬いフィジカルでボランチをメインとしますが、CBからCFまでこなす韓国屈指のユーティリティプレーヤーです。 強豪であるキョンシン中、高に在籍し、それぞれ3年の時に全国大会を制します。学生時代からその器用さは発揮され、中学では攻撃的MF、高校ではFWとしてプレーしました。その後の建国大でも2年までFWでしたが、3年からボランチを務めました。 大学を卒業して蔚山現代に入団。ここでも左サイドやリベロなどで起用され、98シーズンはボランチでありながら得点王に輝くなど国内を代表する選手となりました。 99シーズンにクラブ初の韓国人選手として横浜FMに入り、3月6日平塚(現湘南)戦でJ1デビュー。2ndステージは浦和戦からの4試合連続ゴールなど、FW城に次ぎ中村俊と共にチーム2位タイの7ゴールを挙げました。翌シーズンは5度の1試合2ゴールなど17ゴールと得点王になる中山の20ゴールに迫る数字を残し、1stステージ優勝に大きく貢献しました。 01シーズンに柏へ移籍します。監督交代ががある中、2ndステージで6ゴールを挙げて代表の僚友FWファン・ソンホン、DFホン・ミョンボと共にチームを支え、J1に残りました。 一度韓国に戻りますが、03シーズン途中に横浜FMに復帰します。岡田監督には右SBとして起用されますが、奥と並ぶ5ゴールと攻撃力を発揮しました。翌シーズンは田中隼の台頭により出場機会が減ってノーゴールに終わりましたが、Jリーグ連覇を果たしました。 05シーズンに古巣で現役を引退しています。 J1:113試合44得点 1994年3月5日のアメリカ戦で代表デビューします。アジア杯は1996年に3試合、2000年に5試合出ますが、いずれもタイトルに手が届きませんでした。 1998年W杯最終予選ではUAEやウズベキスタン戦でゴールを挙げます。3試合に出た本大会はベルギー戦で同点ゴールを挙げました。バルサから入団テストのオファーが届く程のパフォーマンスでしたが、横浜FMへの移籍が決まったため実現はなりませんでした。 2000年はゴールド杯に2試合出場し、翌年のコンフェデ杯ではメキシコ戦で決勝点を挙げました。2002年W杯も7試合戦い、ポーランド戦の追加点などベスト4になりました。 その後東アジア選手権で優勝してMVPになります。2004年アテネ五輪ではオーバーエージで4試合に出場してグループリーグを突破しました。 代表記録:122試合17得点 2018年8月20日:新規アップ |