ユン・ジョンファン(Jung Hwan YOON)
フルネーム 尹晶煥(ユン・ジョンファン)
国籍 韓国  
出身地 光州市
生年月日 1973・2・16
身長 173cm
体重 69kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 1994・3・5
アメリカ戦
代表背番号 8 17
W杯メンバー 02年
ニックネーム クェドリ=知恵者
個人タイトル  
チームタイトル  
所属クラブおよび背番号 出場 得点
95 富川SK 24
96 富川SK 22
97 富川SK 16
98 富川SK 28
99 富川SK 18
00 セレッソ大阪(日本) 6 29
01 セレッソ大阪(日本) 6 26
02 セレッソ大阪(日本J2) 6 26
03 城南一和天馬 30
04 全北現代モータース 34
05 全北現代モータース 31
06 サガン鳥栖(日本J2) 8 41
07 サガン鳥栖(日本J2) 8 26
冷静にピッチを見渡し、豊富なアイディアでのゲームメークと技術備えた韓国代表のパサー。普段はプレー同様柔らかい物腰ですが、試合では熱くなり警告を受ける場面もあります。
機を見た前線への攻撃参加は威力がありますが、半面運動量が少なく守備面で機能しないため、監督により好き嫌いが分かれる選手です。

幼少時は俊足で陸上競技をしていましたが、パンリム小学5年でサッカーを始め、左WGでプレーしました。プクソン中学2年時に自ら志願してMFに転向すると才能を伸ばします。
クムホ高では苦しい練習に耐え、東亜大に進学すると1年からレギュラーポジションを獲得。1991年にはUー19代表にも召集されました。
1995年から富川(現済州U)でプレー、1998年にはモナコ、さらにその後メッツとフランスリーグのクラブからオファーもあったものの固辞し、2000年にC大阪へ入団します。3月11日清水戦でJデビューし、3戦目のV川崎(現東京V)戦で初ゴールを挙げました。
同胞ノ・ジュンユン、森島、西澤らリーグ屈指のFW陣を後方から操り快進撃を繰り広げましたが、1stステージ最終節川崎F戦でVゴール負けを喫し、ステージ優勝を逃しました(長居の悲劇)。しかし天皇杯では3試合で3ゴール挙げてベスト8にコマを進めました。
翌シーズンの天皇杯では、5試合6ゴール2アシストと出色の活躍を見せてチームを決勝に導きましたが、リーグでは2度の監督交代の影響で低迷して降格となります。しかし責任を感じて残留し、大久保や森島、真中のゴールを演出して1年でJ1復帰を果たしました。
その後母国で3年プレーした後2006年に再び来日し、J2鳥栖へ移籍。若手がそろうチームに豊富な経験と技術、戦術眼をもたらし、つなぐサッカーを標榜する松本監督の信頼を勝ち取りました。そして4位とクラブ史上最高の成績をおさめる原動力となりました。
07シーズンいっぱいで引退し、そのままチーム強化に乗り出します。11シーズンはFW豊田やボランチの藤田直の活躍などで2位になり、J1初昇格を果たします。12シーズンはリーグ2位、13シーズンは天皇杯ベスト4、そして14シーズン半ばまで首位と着実にチームを強化させていましたが、フロントとの方針の違いにより退任する事態となりました。
その後2シーズン蔚山現代を指揮し、17シーズンにC大阪に就任します。完全移籍のソウザに加え、水沼宏や清武弘と中盤が充実します。また、山村をCBから前線にコンバートして起点を作り、杉本が22ゴールとブレイクしてJ1に復帰したチームを3位に導きました。また、ルヴァン杯と天皇杯の2冠を達成する見事な采配を見せました。

1994年3月5日アメリカ戦でフル代表デビューした後、ユース代表として1996年アトランタ五輪にキャプテンとして3試合出場し、ガーナとの初戦でPKを決めました。
1994年、1998年W杯は監督の構想外で出場を逃しますが、その後就任したヒディンク監督に豊富な経験を買われ、アジア杯やコンフェデ杯にも召集を受けました。
2000年4月26日の日本戦で決勝ゴールをアシストすると、12月20日の日本戦でも途中出場するなど結果を残し、2002年W杯本大会メンバーに選ばれました。若手の台頭で出場機会はありませんでしたが、ピッチ外で献身的にチームを支え、ベスト4進出を果たしました。
代表記録 37試合4得点

2008年2月23日:新規アップ 2018年1月1日更新

11サガン鳥栖(J1初昇格)
  豊田陽平  
  池田圭  
キム・ビョンスク 早坂良太
岡本知剛 藤田直之
磯崎敬太 丹羽竜平
呂成海 木谷公亮
  赤星拓  

17セレッソ大阪(天皇杯、ルヴァン杯優勝)
 杉本健勇 
 山村和也 
柿谷曜一朗清武弘嗣
ソウザ山口蛍
丸橋祐介松田陸
山下達也ヨニッチ
 キム・ジンヒョン