横山 謙三(Kenzo YOKOYAMA)
フルネーム 横山 謙三(ヨコヤマ ケンゾウ)
国籍 日本  
出身地 埼玉県川口市
生年月日 1943・1・21
身長 175cm
体重 72kg
利き足
ポジション GK
FK PK  
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 1964・10・16
ガーナ戦
代表背番号 1 21
W杯メンバー  
ニックネーム  
個人タイトル 66,67,68,69,71,73,74日本サッカーリーグベストイレブン
チームタイトル 68メキシコオリンピック銅メダル
69,73日本サッカーリーグ
71,73天皇杯
所属クラブおよび背番号 出場 得点
66 三菱重工(JSL) 14
67 三菱重工(JSL) 14
68 三菱重工(JSL) 14
69 三菱重工(JSL) 14
70 三菱重工(JSL) 14
71 三菱重工(JSL) 14
72 三菱重工(JSL1部) 14
73 三菱重工(JSL1部) 18
74 三菱重工(JSL1部) 18
75 三菱重工(JSL1部)
76 三菱重工(JSL1部)
77 三菱重工(JSL1部)
読みの鋭さ、高い運動能力、味方DFへのコーチング、80mは軽く飛ばすほどの正確で強烈な長距離キックなど、抜群の安定感で日本代表のゴールを守るGKです。
動きを観察するため、上野や多摩など動物園のヒョウの檻の前に一日中いたことがあります。

東京の神田に四人兄妹の三男として生まれます。父親は銀座で電線業を営んでいましたが、戦時中だったこともあり、浦和(現さいたま市)へ疎開しました。周知の通りサッカーの盛んな街の学校に入ったことで自身もボールを蹴り始めます。父親が他界し、悲しみを紛らわすためにケンカに明け暮れるなど腕白な少年時代を過ごしました。
それまでは遊びの範疇を出ませんでしたが、サッカーに本格的に打ち込むようになったのは川口高に進学してからでした。当時の県内は浦和高や浦和西高などが全国制覇をするなど非常にレベルが高く、その中で無名だった川口高で豪快なキックを前面に出して攻撃的な位置でプレーしていましたが、3年時にGKに転向。後に三菱でも指導を受ける生駒友彦コーチに基礎技術をたたきこまれ実力をつけました。そして関東大会に出場し3位入賞を果たしました。
この活躍で大会を視察していたU−18の岡野監督の目に留まり、ほとんどが浦和から選ばれていた代表に川口高の選手として召集を受け、バンコクでのアジアユースに出場しました。
卒業後に立教大へ進学します。FW渡辺正の存在や、代表でのクラマーの指導などの著しい環境の変化により自身もスキルアップを果たします。大学4年時には自動車事故で頭蓋骨骨折、右目裂傷と瀕死の重傷を負いますが、強靭な肉体と精神力で復活を遂げました。
大学卒業後に三菱重工(現浦和)に入団し、DF森、片山、FW杉山といった代表勢と共にプレー。毎年のようにベストイレブンに選出され、2度のリーグ優勝を果たすなどリーグ屈指のGKとなりました。73シーズンからはキャプテンを務め、77シーズンを最後に現役を引退しました。
PMとして三菱の監督に転身すると、その後は日本代表でも指揮を執り、Jリーグ開幕後の浦和監督やGMを歴任し他方面でも要職に就くなど、現役時代同様の活躍をしています。
JSL:136試合

大学在学中の1964年10月16日、東京五輪ガーナ戦でフル代表デビュー(大会中この試合のみ国際Aマッチであり、前年には代表入りしていました)。それまで正GKだった古河(現千葉)の保坂の戦線離脱によりポジションを確保します。五輪ではアルゼンチンに勝利したものの、チェコ・スロヴァキアとユーゴスラヴィアに連敗を喫するも、ベスト8進出を果たしました。
1966年アジア大会では7試合プレーし3位になると、続くメキシコ五輪予選では韓国戦こそ引き分けましたが、残りの4試合を勝利して出場権を獲得。本大会メキシコ戦では相手選手のペレダのPKをキャッチし、銅メダル獲得に大きな役割を果たしました。
1970年W杯予選ではオーストラリアと韓国相手に1勝もできず、1970年アジア大会では再び韓国の前に敗れ4位となりました。また、1974年W杯予選では東洋工業(現広島)の船本や、若い日立(現柏)の瀬田らが台頭してポジション争いが激化、1974年アジア大会ではグループリーグ敗退を喫し、同年9月の日韓定期戦を最後に代表から退いています。
代表記録 49試合
2008年9月1日:新規アップ 2012年3月17日更新