柳沢 敦(Atsushi YANAGISAWA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 柳沢 敦(ヤナギサワ アツシ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 富山県射水市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1977・5・27 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 177cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 75kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(CF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1998・2・15 オーストラリア戦 |
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代表背番号 | 13 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 02年 06年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ヤナギ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 97Jリーグ新人王 | ||||||||||||||||||||||||||||
98,01,08Jリーグベストイレブン | |||||||||||||||||||||||||||||
15Jリーグ功労選手賞 | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 97ファーストステージ | ||||||||||||||||||||||||||||
98,00,01セカンドステージ | |||||||||||||||||||||||||||||
96,98,00,01,07Jリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
97,00,02ナビスコカップ | |||||||||||||||||||||||||||||
97/98,00/01天皇杯 | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
96 鹿島アントラーズ | 8 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
97 鹿島アントラーズ 13 | 25 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
98 鹿島アントラーズ 13 | 32 | 22 | |||||||||||||||||||||||||||
99 鹿島アントラーズ 13 | 26 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
00 鹿島アントラーズ 13 | 26 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
01 鹿島アントラーズ 13 | 26 | 12 | |||||||||||||||||||||||||||
02 鹿島アントラーズ 13 | 27 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
03 鹿島アントラーズ 13 | 8 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
03/04 サンプドリア(イタリア) 13 | 15 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
04/05 メッシーナ(イタリア) 13 | 22 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
05/06 メッシーナ(イタリア) 13 | 7 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
06 鹿島アントラーズ 13 | 23 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
07 鹿島アントラーズ 13 | 19 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
08 京都サンガ 13 | 32 | 14 | |||||||||||||||||||||||||||
09 京都サンガ 13 | 22 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
10 京都サンガ 13 | 31 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
11 ベガルタ仙台 30 | 17 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
12 ベガルタ仙台 13 | 16 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
13 ベガルタ仙台 13 | 20 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
14 ベガルタ仙台 13 | 13 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
スピードと技術、ポストプレーやオフ・ザ・ボールにセンスを見せ、1トップにも2トップにも対応できます。しかしこのプレースタイルにより、ゴールへの意欲に乏しいという向きもあります。 小学校2年でサッカーを始め、1992年にジュニアユースに選ばれて海外遠征を経験しました。県外の強豪校からオファーがきたものの、脊椎分離症からくる腰痛の状況も考慮し、地元の富山第一に進学しました。高校2年時に日本選抜に選出され、タイで行われたキングス杯へ参加、森島寛らと素晴らしい活躍を見せて存在を日本全国にアピールしました。 第74回高校選手権では主将として3回戦に進出。1ゴールにとどまりますが、その高いパフォーマンスで大会最高のストライカーと評され、Jリーグの18クラブのうち13クラブからスカウトを受け、3月に鹿島へ入団しました。1996年5月のナビスコ杯でトップデビューを果たすと、続く8月18日のG大阪戦でJリーグデビュー。2試合目で初ゴールを記録すると4試合連続ゴールを記録し、前評判にそぐわない実力を発揮しました。1997年にはJリーグの新人王を獲得、以降は数々のチームタイトルに貢献し、磐田と並びJリーグ2強としてトップに君臨しました。 2001年末、セリエAペルージャからのオファーに応えると思われましたが、W杯を控えた時期に環境を変えることがリスクになると判断して固辞しました。その後03/04シーズンよりセリエAに復帰した名門サンプドリアへ移籍し、2003年8月30日の開幕レッジーナ戦にて後半途中出場でデビューしますが、ノーゴールでシーズンを終えました。翌シーズンにはメッシーナに移籍してFWだけでなくサイドハーフとして出場しましたが、ゴールを決めることができず、06シーズン開幕直前に古巣の鹿島アントラーズに復帰。広島での開幕戦ではバイシクルなどハットトリックを達成しましたが、その後コンディションを崩して不本意な成績に終わりました。 07シーズンもマルキーニョスの加入、田代や興梠の成長で出番が減り、キャリア初の国内移籍をして再スタートを切ります。日本人最多の14ゴールを挙げて7年ぶりのリーグベストイレブンに選ばれ存在感を示しますが、その後はゴールに恵まれず降格の要因となりました。 11シーズンに仙台へ移籍して主将に就任。しかし開幕後に震災が発生し、マルキーニョスが退団して得点源としての負担が増える中、ケガにより17試合の出場に終わりました。その後もウィルソンや赤嶺などの前に出番が限られ、14シーズンを最後に引退しました。 J1:371試合108得点 1997年Wユースでは5試合で4ゴールと役割を果たしてベスト8に進出し、翌1998年2月15日オーストラリア戦にて代表デビュー。同年のW杯メンバーからは外れましたが、トルシエ監督就任後は召集が増え、2000年シドニー五輪でも4試合1ゴールでベスト8に進みました。 徐々にゴールへの執着心を身に付けてレギュラーの地位を確立、2002年W杯では3試合に出場し、ロシア戦では稲本をアシストしてベスト16進出に貢献しました。 2004年は海外へ移ったこともあり召集されませんでしたが、2005年コンフェデ杯では3試合戦いメキシコ戦でゴール、5試合プレーした2006年W杯予選では中立地であるタイでの北朝鮮戦でゴールを挙げて世界で最も早く日本をW杯出場に導くなど、要所で活躍しました。 その後骨折して全治2ヶ月と診断されましたが、ジーコ監督からの信頼は厚く、2006年5月15日に行われたW杯本選出場メンバーに選ばれます。しかし先発したオーストラリア戦とクロアチア戦でシュートチャンスを逃し、悔いの残る結果となっています。 代表記録 57試合17得点 2015年12月21日更新 |