山本 昌邦(Masakuni YAMAMOTO)
フルネーム 山本 昌邦(ヤマモト マサクニ)
国籍 日本  
出身地 静岡県沼津市
生年月日 1958・4・4
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1987〜92 ヤマハ発動機コーチ
1992〜94 日本ユース代表コーチ
1993〜96 アトランタオリンピック日本代表コーチ
1995〜97 1997ワールドユース日本代表
1997〜98 ジュビロ磐田ヘッドコーチ
1998〜02 日本代表コーチ
1998〜00 シドニーオリンピック日本代表コーチ
1998〜99 U−20日本代表コーチ
1999〜02 五輪日本代表コーチ
2002〜04 アテネオリンピック日本代表
2004〜06 ジュビロ磐田
獲得タイトル  
沼津に生まれ、小学生からサッカーを始めます。高校時代は主将としてチームをけん引、選手権には出場はなりませんでしたが、ユース代表に選出されました。
判断力に長けたDFとして名を馳せ、国士舘大学時代にユニバーシアード代表に選ばれると、フル代表も1982年W杯アジア地区予選など4試合に出場しました。
クラブレベルでは磐田の前身ヤマハ発動機に在籍し、天皇杯優勝も経験しましたが、ケガが多かったこともあり29歳で現役を引退しました。

選手育成の実績では日本随一の存在。特に1990年代後半から2000年代前半の日本代表の躍進と磐田の黄金期を陰ながら支えました。情報収集、戦術指導から精神・肉体面のケアと、選手を総合的に管理する能力に長けています。また、アテネ五輪予選で見られたシステム変更やローテーション導入など時宜にかなった采配を見せます。
基本的には3バックですが、人材により中盤における攻守の割り振りを変えることがあります。

引退後、そのままクラブに残ってコーチとして再スタートを切ります。約5年間務めますが、クラブでの指導はもとより、海外への研修や高校へのスカウトを精力的に行いました。
1992年に日本サッカー協会から要請を受け、西野監督の下でコーチに就任。川口、服部、伊東、城らを擁して10月のアジアユースに臨み、準決勝にて1次予選で勝利した韓国と対戦します。1−1から残り5分で勝ち越しゴールを許して敗れ、1993年Wユース出場権を逃しました。自身はWユースが開催されるオーストラリアへ足を運んで決勝戦などを視察しました。
そして田中孝司監督率いる代表コーチに就任。1994年アジアユースでは韓国に勝利を挙げるなどグループリーグを突破し、決勝に進みします。ここでシリアに敗れはしたものの、自国開催となった1979年大会以来のWユース出場権を手中にしました。
1995年にカタールで行われた本大会は、リベロの田中誠が離脱するアクシデントに見舞われ、そこにカバーリングに長けた秋葉を配置します。グループリーグではチリとドロー、スペイン戦ではラウールのゴールにより敗れましたが、3戦目のブルンジに勝ち、チリがスペインに大敗を喫したため決勝トーナメントに進出します。その後の相手ブラジルに敗れますが先制点を挙げるなど健闘を見せ、世界を意識し始めた大会でまずまずの結果を残しました。
その後1996年アトランタ五輪予選に臨み、再び西野監督の下で働きます。エースとしての活躍が期待された小倉がケガで離脱するも、1次予選を通過。Wユースで指導した中田英の台頭もあり28年ぶりに出場権を獲得、本大会ではブラジルを破るなどインパクトを残しました。
五輪終了後にキャリア初の監督となります。1996年アジアユースでは準決勝で韓国に敗れますが、UAEとの3位決定戦をPK戦の末制して1997年Wユースの出場権を獲得します。本大会ではスペインに敗れますが、コスタリカ相手に6点を奪うと、強豪パラグアイと引き分けてグループリーグを通過します。ノックアウトラウンドではオーストラリアに競り勝ち、ガーナに敗れましたがベスト8進出と結果を残しました。柳沢が5試合4ゴールと爆発した背景には、中村俊と大野という2枚のトップ下、さらにこの二人の攻撃センスを引き出すべく1ボランチとして機能した明神の活躍は見落とせない部分でした。また、GK南とFW永井雄は1979年生まれと下の世代ながらレギュラーとして活躍しました。
そして古巣磐田のヘッドコーチに就任すると、自身も獲得にかかわった中山、名波、藤田ら主力がピークを迎え、97シーズンの2ndステージと年間制覇を達成します。翌98シーズンの1stステージも2位で終えるなどクラブ黄金時代の黎明期に携わりました。
その後再び協会から要請され1998年10月に日本代表コーチに就任、ユース代表も兼任するトルシエ監督のアシスタントとして働きます。アフリカ大陸で経験を積み強烈な個性を持つ彼と、長い年月をかけて指導してきた選手の間に立ち、フィルター役として不可欠の存在になります。1998年アジアユースでは決勝サウジアラビア戦以外は負けず1999年Wユース出場権を獲得。初戦でカメルーンに敗れますが、その後はイングランドやポルトガルと強豪相手に勝利を重ね、国際大会初の決勝進出を果たしました。ここでは厳しい判定などもあり大敗を喫しましたが、「黄金世代」が世界に羽ばたきました。エースの高原、2大会連続出場となった永井と南に加え、負傷がちの稲本に代わり中盤でバランスを取った遠藤が、小野と小笠原の創造力や本山のドリブルと才能を引き出しました。
その後のシドニー五輪では2つのWユースチームをベースに、2度目の出場となる中田英と松田、最終予選で活躍した平瀬、中澤を招集します。前評判が高かったチームはグループリーグを突破するも、決勝トーナメント初戦でアメリカの前にPK戦で敗れました。しかしその後のアジア杯では五輪出場メンバーと森島寛や名波、川口といった1998年W杯の選手が融合、2大会ぶりの優勝を果たしました。自国開催となったW杯ではベスト16の成績を残しました。
2002年7月にジーコ政権のフル代表コーチとアテネ五輪を目指すユース代表監督を兼任、2003年より監督に専念します。2001年Wユースでグループリーグ敗退し、2003年大会はベスト8に進出したメンバーを基に、ブラジルから帰化したDF闘莉王、当時国見高校のFW平山を飛び級で招集。2次予選のミャンマーとは2戦合計で8−0と圧勝して最終予選に進みます。
最終予選はUAEと日本のダブルセントラル方式の総当たり2回戦制で行われ、それぞれ中一日という超過密日程でした。この中で選手のコンディションを考慮し、それぞれのラウンドで選手を入れ替えるローテーション制を敷きます。そしてUAEラウンドを田中達の2試合連続ゴールなどで首位で折り返すと、日本ラウンドでは初戦こそバーレーンに足元をすくわれますが、フル代表にデビューした大久保が2試合連続ゴールを挙げて3大会連続出場を果たしました。この2人のFWに、松井、前田、山瀬功など層が厚い攻撃陣に加え、フィールドプレーヤーで最も運動量が要求されるポジションながら両ラウンド全試合出場を果たした今野や、大学生でありながらCBと右アウトサイドで5試合に出場した徳永と、守備陣の底上げにも成功しました。
本大会では予選でキャプテンを務めた鈴木啓をメンバーから外して驚きを与えます。オーバーエージはMF小野、FW高原、GK曽ヶ端を選びますが、高原の合流が不可能となり、代わりの選手も招集できませんでした。グループリーグでは小野の2ゴールも及ばず1点差でパラグアイに敗れると、イタリアにはデ・ロッシとジラルディーノに立て続けにゴールを献上、ガーナ戦での勝利も敗退決定後にあっては無意味なものとなりました。
アテネ五輪終了後に古巣磐田で初めて監督となりますが、執行役員と兼任という複雑な状況に置かれ、チームは低迷したまま辞任しました。その後は学生への指導や解説者、講演活動と幅広く活躍しています。

余談
・2002年11月20日アルゼンチン戦では、ジーコ監督が母親の死去に伴い母国へ帰国したため、監督代行として日本代表を指揮しています。
2010年1月8日:新規アップ 2012年7月10日更新

97U−20日本代表(Wユースベスト8)
柳沢敦 永井雄一郎
中村俊輔 大野敏隆
城定信次 広山望
  明神智和  
戸田和幸 山口智
  宮本恒靖  
  南雄太  

02日本代表(11月20日アルゼンチン戦)
鈴木隆行 高原直泰
中村俊輔 小笠原満男
中田浩二 福西崇史
中西永輔 名良橋晃
松田直樹 秋田豊
  楢崎正剛  

04U−23日本代表(アテネ五輪出場)
大久保嘉人 高松大樹
  小野伸二  
森崎浩司 徳永悠平
今野泰幸 阿部勇樹
那須大亮 茂庭照幸
  闘莉王  
  曽ヶ端準  

05ジュビロ磐田
前田遼一 カレン・ロバート
  成岡翔  
村井慎二 太田吉彰
名波浩 福西崇史
茶野隆行 キム・ジンギュ
  田中誠  
  川口能活