山田 隆裕(Takahiro YAMADA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 山田 隆裕(ヤマダ タカヒロ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 大阪府高槻市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1972・4・29 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 174cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 70kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(RWG) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1994・9・27 オーストラリア戦 |
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代表背番号 | 17 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 91,92天皇杯 | ||||||||||||||||||||||||||||
91/92,92/93アジアカップウィナーズ・カップ | |||||||||||||||||||||||||||||
95ファーストステージ | |||||||||||||||||||||||||||||
95Jリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
90/91 日産自動車(JSL1部) | |||||||||||||||||||||||||||||
91/92 日産自動車(JSL1部) | |||||||||||||||||||||||||||||
92 横浜マリノス | |||||||||||||||||||||||||||||
93 横浜マリノス | 27 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
94 横浜マリノス | 32 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
95 横浜マリノス | 43 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
96 横浜マリノス | 23 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
97 横浜マリノス 22 | 25 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
98 京都サンガ 8 | 29 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
99 ヴェルディ川崎 7 | 27 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
00 ベガルタ仙台(J2) 32 | 19 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
01 ベガルタ仙台(J2) 32 | 28 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
02 ベガルタ仙台 32 | 18 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
03 ベガルタ仙台 32 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
独特のステップとスピードが同居したドリブルで相手を置き去りにし、右足で高精度クロスを上げてチャンスを作ります。自らもカットインからのシュートでゴールマウスを捉えます。 大阪府高槻市生まれ。6歳で静岡県清水市に引っ越したことがきっかけでサッカーを始めます。小3で選抜チームの清水FCに入り、小6の全国大会でベスト8になりました。 中学時代は家庭の都合でアルバイトとサッカーの練習を両立させました。そして清商の監督からオファーを受けて進学を決意します。藤田俊や三浦文らを擁する名門の中で1年からレギュラーとなり、高校選手権県大会決勝でゴールを挙げて清水東を破り、本大会でも決勝で市立船橋と対戦、ヘディングで決勝ゴールを挙げて全国制覇に大きく貢献しました。 2年時は全日本ユースやインターハイを制しましたが、高校選手権の県大会準決勝では相馬直らを擁する清水東の雪辱を許しました。3年時は大岩、望月重、薩川、名波と史上最強のメンバーを束ね、全日本ユースとインターハイ2連覇しました。高校選手権では本大会に進みますが、自身も含めケガ人が続出、3回戦で大宮東にPK戦で敗れて3冠は潰えました。 卒業後に日産(後の横浜M、現横浜FM)に入社。水沼や金田といったドリブラーから多くを学んで技術に磨きをかけ、91/92シーズンの第3節全日空(後の横浜F)戦でJSLデビュー。天皇杯決勝読売クラブ(後のV川崎、現東京V)戦でゴールを挙げてタイトル獲得に貢献しました。アジアカップウィナーズ杯では優勝するものの、自身は退場処分を受けました。 93シーズンにJリーグが開幕し、5月22日名古屋戦でデビュー。高校の先輩である三浦文に加え、アルゼンチン代表R・ディアスやM・ベージョといったワールドクラスと攻撃陣を組みます。95シーズンはチーム3位の7ゴールをマークしてリーグ優勝に貢献しました。その後1年ずつ在籍した京都やV川崎でも主力として活躍した後、29歳で一度スパイクを脱ぎました。 しかし、J2仙台を率いる横浜M時代の恩師清水監督の要請を受けて現役に復帰し、岩本や財前宣らと共に01シーズンにJ1昇格を決めて引退。その後は実業家に転身しています。 JSL1部:9試合 J1:224試合20得点 J2:47試合3得点 永井監督の下1991年Wユース予選に出場。先輩の藤田らと共にプレーしますが本大会へ進めず、バルセロナ五輪予選メンバーに入ることはできませんでした。 1994年9月27日オーストラリア戦で先発し、フル代表唯一のキャップを記録しています。 代表記録 1試合 2017年11月21日:新規アップ |