山田 暢久(Nobuhisa YAMADA)
フルネーム 山田 暢久(ヤマダ ノブヒサ)
国籍 日本 山田暢
出身地 静岡県藤枝市
生年月日 1975・9・10
身長 175cm
体重 66kg
利き足
ポジション DF(RSB)
FK PK FK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 2002・11・20
アルゼンチン戦
代表背番号 2 12 22
W杯メンバー  
ニックネーム ヤマ
個人タイトル 14Jリーグ功労選手賞
チームタイトル 03ナビスコカップ
04セカンドステージ
05,06天皇杯
06Jリーグ
07AFCチャンピオンズ・リーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
94 浦和レッズ 15
95 浦和レッズ 42
96 浦和レッズ 30
97 浦和レッズ 13 22
98 浦和レッズ 2 34
99 浦和レッズ 2 29
00 浦和レッズ(J2) 2 39
01 浦和レッズ 2 27
02 浦和レッズ 2 28
03 浦和レッズ 6 27
04 浦和レッズ 6 27
05 浦和レッズ 6 32
06 浦和レッズ 6 32
07 浦和レッズ 6 29
08 浦和レッズ 6 28
09 浦和レッズ 6 30
10 浦和レッズ 6 27
11 浦和レッズ 6 24
12 浦和レッズ 6
13 浦和レッズ 6 10
一瞬でトップスピードに乗る瞬発力、ドリブル突破に威力のあるミドルも備えています。本来は右サイド全般ですが、トップ下やCBにも対応するユーティリティ性もJリーグ屈指です。
低迷期を経て強豪となった浦和で最長の在籍年数を誇り、なお主力としてチームをけん引する姿は、「ミスター・レッズ」と呼ばれた福田正博にも引けを取らない貢献度があると言えます。

静岡県藤枝市に生まれ、小学2年生頃から地元の少年団でサッカーを始めましす。市立藤枝中を経て、全国でも指折りの強豪である藤枝東に進学しました。学生時代はジュニアユース大会全国優勝、ユース大会全国優勝、国体優勝など多くの栄冠を勝ち取りました。
高校2年生の頃からプロのスカウトに注目され、卒業後に浦和へ入団。94シーズンの4月27日アウェーの清水戦でJデビューを果たすと、同年11月19日の横浜M戦で初ゴールを挙げました。チームが弱小だったのでタイトルには恵まれず、00シーズンにはJ2降格も経験しました。徐々に優秀な人材が加入しましたが、自身の存在は揺らぐことはありませんでした。
2004年にともにプレーしたブッフバルトが監督に就任し、同時にキャプテンに指名されます。また、従来のポジションに若手の平川が台頭し、トップ下のレギュラーとなりました。翌年8月24日のホーム神戸戦にて、20代の選手として初のJ1リーグ300試合出場を達成しました。
03シーズンより4年連続でタイトルを獲得するも、その後2年間は無冠となり、闘莉王が去った10シーズン以降はCBやボランチと守備的な位置でタイトル奪還を目指します。しかし永田充、槙野、森脇、那須と相次ぐDFの加入で出番を減らしました。
13シーズンにJリーグ初となる同一クラブでの20年目を迎え、ホームの柏戦で伊東輝、楢崎に続くJ1リーグ500試合出場を果たして引退。その後スタッフに転身しています。
J1:501試合25得点 J2:39試合2得点

1995年Wユースでは中田英や松田らとともに4試合出場、ブルンジ戦でゴールを挙げてベスト8に進出しましたが、その後のユースレベルでは招集されませんでした。
2002年W杯終了後、ジーコ監督2試合目の2002年11月20日アルゼンチン戦で名良橋に代わって途中出場しフル代表デビュー。2003年はコンフェデ杯で3試合戦い、初開催となる東アジア選手権にも出場。2004年2月7日マレーシア戦で初ゴールを挙げています。
代表記録 15試合1得点
2006年11月12日:新規アップ 2014年10月21日更新