八重樫 茂生(Shigeo YAEGASHI)
フルネーム 八重樫 茂生(ヤエガシ シゲオ)
国籍 日本  
出身地 岩手県花巻市
生年月日 1933・3・24
身長 170cm
体重 65kg
利き足
ポジション MF(CMF)
FK PK  
キャプテン経験 代表
代表デビュー 1956・6・3
韓国戦
代表背番号 9 11 13
W杯メンバー  
ニックネーム  
個人タイトル 63日本年間最優秀選手
66,67,68日本サッカーリーグベストイレブン
チームタイトル 60,61天皇杯
68メキシコオリンピック銅メダル
所属クラブおよび背番号 出場 得点
65 古河電工(JSL)  
66 古河電工(JSL)  
67 古河電工(JSL)  
68 古河電工(JSL)  
69 古河電工(JSL)  
足が速く瞬発力もあるなど身体能力が高く、相手DFラインを突破するFWとしても、優れた戦術眼と的確な判断力、正確無比のパスで司令塔としても抜群のスキルを持つ選手です。
代表史上に残る名キャプテンであり、気性が激しくチームメートに対して怒鳴りつける一幕もありますが、その内容が的を射たものが多く、周囲からの信頼は厚いものとなっています。

実家は岩手県にありましたが、太平洋戦争の影響で、当時日本の統治下にあった朝鮮(現韓国)のテジョンに生まれます。1945年8月に戦争が終結し、10月に実家に戻ったのは12歳の時でした。旧制森岡中学に入学して1年をやり直し、その後盛岡一高へ進学しました。
もともとスポーツ万能で、高校からサッカーを始めるまでは体操や野球をしていましたが、ベルリン五輪の日本代表を指導していた工藤孝一コーチと出会い、技術を磨きます。そして彼が率いるクラブのメンバーに入り、天皇杯に出場するものの緒戦で立教大に敗れます。自身はその高校生離れしたプレーが中大関係者の目に留まりスカウトされますが、1年で中退しました。
その後1954年に早大へ入り直します。2年後の関西学院大との試合で2ゴールを奪い、その活躍が脚光を浴び、1956年6月3日のメルボルン五輪予選韓国戦でフル代表デビューを果たします。そして2戦で1アシストし、幻のゴール(味方がオフサイドポジションにいたため)など見せ場を作りました。そして5ヶ月後の本大会にも出場しましたがオーストラリアに敗れ、わずか1試合で大会を後にしました(当時の大会はノックアウト方式)。
ローマ五輪予選を控えたムルデカ大会で負傷し、骨を削り金属製のボルトを埋め込む日本初となる大手術を受けました。自身の不在もあり、チームは本大会の出場を逃しますが、復帰後は古河電工(現千葉)でDF平木隆三らと共に2年連続で天皇杯を制しました。
1962年W杯予選を経て、1961年8月2日ムルデカ大会のマラヤ戦で代表初ゴールをマーク。2年後の8月12日ムルデカ大会の南ベトナム戦ではハットトリックも挙げています。
その後1964年、東京五輪を控えた欧州遠征中、デットマール・クラマーによりFWからMFにコンバートされました。そして1954年W杯で優勝した西ドイツ主将のフリッツ・ヴァルターを手本にして、司令塔としてのプレーを模索し始めました。練習試合ではクラマーの計らいによってヴァルターとプレーする幸運に恵まれ、「ドイツで通用する」という最大限の賛辞を受けました。実際、自身の知らないところでドルトムントへの移籍話も持ち上がっていました。
東京五輪本大会緒戦のアルゼンチン戦で杉山のゴールをアシストし、ガーナ戦では豪快なミドルを叩き込むなど見せ場を作り、ベスト8進出を果たしました。その後一度は引退を考えましたが、長沼代表監督の説得に応じ、古河電工のPMとして現役を続行しました。
35歳で出場したメキシコ五輪ではキャプテンとなり、緒戦のナイジェリア戦でエース釜本のゴールをアシストするなど活躍。しかしこの試合で負傷し、その後は試合に出場した選手のユニフォームを洗濯するなどピッチの外でも献身的な姿勢を見せ、銅メダル獲得に貢献しました。
翌年に現役を引退した後はユース代表や古河、富士通(現川崎F)などで監督を務め、2005年には殿堂入りを果たします。2011年5月2日に脳梗塞のため78歳で亡くなっています。
JSL:51試合14得点
代表記録 44試合11得点
2011年5月5日:新規アップ 2013年4月14日更新