ジョージ・ウェア(George WEAH)
フルネーム ジョージ・マネー・オポン・オスマン・ウェア
国籍 リベリア
出身地 モンロヴィア
生年月日 1966・10・1
身長 184cm
体重 82kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 1986・2・23
ブルキナファソ戦
代表背番号  
W杯メンバー  
ニックネーム リベリアの怪人
個人タイトル 89,94アフリカ年間最優秀選手(フランスフットボール誌)
95バロンドール(フランスフットボール誌)
95世界年間最優秀選手(FIFA)
95アフリカ年間最優秀選手(CAF)
チームタイトル 87/88カメルーンリーグ
90/91,92/93,94/95フランスカップ
91/92UEFAカップウィナーズ・カップ
93/94ディヴィジョンアン
95/96,98/99セリエA
99/00FAカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
81 ヤング・サバイアーズ    
82 ヤング・サバイアーズ    
83 ヤング・サバイアーズ    
84 ヤング・サバイアーズ    
84 ボンラン・カンパニー    
85 マイティ・バロール    
86 マイティ・バロール    
86 インビンシブル・イレブン    
87 インビンシブル・イレブン    
87/88 トネール・ヤウンデ(カメルーン) 18 14
88/89 モナコ(フランス) 23 14
89/90 モナコ(フランス) 17
90/91 モナコ(フランス) 29 10
91/92 モナコ(フランス) 34 18
92/93 パリ・サンジェルマン(フランス) 30 14
93/94 パリ・サンジェルマン(フランス) 32 11
94/95 パリ・サンジェルマン(フランス) 34
95/96 ミラン(イタリア) 9 26 11
96/97 ミラン(イタリア) 9 28 13
97/98 ミラン(イタリア) 9 24 10
98/99 ミラン(イタリア) 9 26
99/00 ミラン(イタリア) 9 10
99/00 チェルシー(イングランド) 31 11
00/01 マンチェスター・シティ(イングランド)
00/01 マルセイユ(フランス) 19
01/02 アル・ジャジーラ(UAE) 13
02/03 アル・ジャジーラ(UAE)
驚異的なフィジカルでのドリブル突破や空中戦などダイナミックなプレーで主導権を握り、独特のきゅう覚でネットを揺らすのはもちろん、チャンスメーカーとしての資質も高いCFです。
1999年に国際歴史記録学会によるアフリカの20世紀最優秀選手に選出されました。

首都モンロヴィア郊外のスラム街シャンティタウンにて、14人兄弟の3番目として生まれます。幼くして父親を亡くしたため父方の祖母に育てられました。サッカー選手を志す前の将来の目標は、地元モンロヴィアでテレフォンオペレーターになることでした。
15歳の時に当時3部の地元Y・サバイアーズと契約します。元来GKでしたが素質が認められFWへ転向すると、30試合31得点と驚異的な決定力でチームを2部に昇格させました。
その後1部リーグのクラブを経て、1986年には国内の強豪I・イレブンへ移籍します。ここではキャプテンを務め得点王にもなる活躍を見せました。翌年にカメルーン代表FWミラも在籍したT・ヤウンデに移籍し、自身初タイトルとなるリーグ優勝を達成しました。
そして、ヴェンゲル監督率いるモナコへ移籍。DFテュラム、プティ、MFジョルカエフ、名古屋でもプレーしたMFパシらと共に90/91シーズンにフランス杯を制すると、翌年にはカップウィナーズ杯の決勝に進出。その後移籍したPSGでもリーグタイトルを獲りました。
94/95シーズンのチャンピオンズ・リーグでは、グループリーグでバイエルンをかわして首位通過を果たすと、バルセロナとの準々決勝ではアウェーゴールを挙げて勝利に貢献します。しかし続くミランとの準決勝では、バレージ、マルディーニ、コスタクルタと世界最高レベルのDF陣を前に仕事ができず完封負けを喫しました。一方国内ではカップ戦を制しています。
95/96シーズンにミランへ移籍し、「オランダ・トリオ」解体後のチームで奮闘、移籍初年度から3シーズン連続でクラブ最多のゴールを稼ぎます。カペッロ監督の下での1年目とザッケローニ監督の下での4年目と、2度のスクデット獲得を果たしました。
1995年にバロンドールの選出基準が改定され、ヨーロッパ国籍以外、アフリカ大陸の選手として初の受賞となり、同年にFIFA選出の世界年間最優秀選手賞も受賞します。また、自身3度目のアフリカ年間最優秀選手賞と、この年の個人タイトルを独占しました。
1996年9月8日ヴェローナ戦では、自陣エリアから相手エリア内までの約90mをドリブルしてゴールを決めます。また、FIFAフェアプレー賞に輝きますが、96/97シーズンのチャンピオンズ・リーグ、ポルト戦でのJ・コスタへのラフプレーは議論の的となりました。
その後ヒザのケガやシェフチェンコの加入で出番が減り、99/00シーズン途中にチェルシーにレンタル移籍します。ここではFA杯を獲得しますが、ゾラとフローのサブに甘んじました。
マンチェスター・C、マルセイユ、UAEのアル・ジャジーラと各国クラブを渡り歩き、02/03シーズンでのプレーを最後に現役生活に終止符を打ちました。

1986年2月23日ブルキナファソ戦でデビューしますが、母国はアフリカ大陸の中では弱小国であるため実績はほとんどありませんでした。しかしユニフォーム代や遠征時の交通費、コーチや監督への給料支払いなど、キャリアを通じて代表への援助を続けました。
W杯予選は1990年大会から4大会連続で出場、通算22試合で6ゴールを挙げています。
代表記録 65試合10得点

余談
・愛称は「怪人」ですが、基金を設立し、ユニセフ親善大使も務めるなど人道支援を展開しているさまは「英雄」そのものであり、その言葉にすらとらわれない存在であるといえます。
2011年8月31日:新規アップ 2012年8月23日更新

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