フルネーム ジェラルド・メルビン・ファネンブルグ
国籍 オランダ  
出身地 ユトレヒト
生年月日 1964・3・5
身長 172cm
体重 70kg
利き足
ポジション MF(RMF)
FK PK FK
キャプテン経験  
代表デビュー 1982・4・14
ギリシャ戦
代表背番号
W杯メンバー 90年
ニックネーム ジェラウジーニョ
個人タイトル  
チームタイトル 82,83,85,85/86,87〜89,91,92エールディヴィジ
83,86,88,88〜90オランダカップ
87/88UEFAチャンピオンズ・カップ
88UEFA欧州選手権
所属クラブおよび背番号 出場 得点
80/81 アヤックス 11
81/82 アヤックス 32 13
82/83 アヤックス 33 17
83/84 アヤックス 34
84/85 アヤックス 29 12
85/86 アヤックス 34 12
86/87 PSV 34
87/88 PSV 34
88/89 PSV 34 10
89/90 PSV 21
90/91 PSV 29 11
91/92 PSV 19
92/93 PSV 28
93 ヤマハ発動機(日本JFL)
94 ジュビロ磐田(日本) 43
95 ジュビロ磐田(日本) 21
96 ジュビロ磐田(日本) 22
96/97 ユトレヒト
97/98 カンヌ(フランス) 26
98/99 1860ミュンヘン(ドイツ) 5 27
99/00 1860ミュンヘン(ドイツ) 5 15
小柄ですが、ストリートで磨いたドリブルと短いパスで局面を打開します。戦術眼と展開力、利他的なメンタリティで攻守のバランスに優れ、リベロにもなります。

アヤックスの下部組織で成長すると、弱冠16歳でトップチームに昇格。2年目にはレギュラーに座り、ファン・バステン、R・クーマン、ライカールトらとの活躍によりタイトルを重ねました。
しかしクライフ監督との確執があり、クーマンと共にライバルのPSVへ電撃移籍します。アヤックス時代のキーフト、G大阪でプレーするヒルハウス、ブラジルからロマーリオも加入し、リーグ、カップをそれぞれ3連覇しました。チャンピオンズ杯でも決勝でベンフィカをPK戦で下しました。その後のインターコンティネンタル杯ではウルグアイのナシオナルにPK戦で敗れました。
強豪クラブからのオファーも引く手あまたでしたが、ローマとの移籍交渉では契約上のトラブルにより白紙となりました。その後PSVから異例の10年契約を提示されサインしますが、右ヒザの負傷と若手の台頭により2年で契約を解除しました。その後日本代表監督を務め、面識がある同胞のハンス・オフト氏からオファーを受けてJFLヤマハに入団します。
当時29歳と脂の乗った時期だけに周囲に驚きを与えましたが、FW中山、MF吉田光といった代表勢と共にJ昇格に貢献。1994年3月12日、鹿島との開幕戦でJリーグデビューを果たすと、1stステージでは横浜M、横浜F、清水と3連発を決めるなどイタリア代表FWスキラッチと共にワールドクラスのプレーを披露し、ルーキーの藤田俊に影響を与えました。
95シーズンはリベロにコンバートされ、W杯を制したドゥンガとの連携も期待されましたが、十字じん帯を傷めて戦列を離れました。96シーズンは1stステージで横浜F、広島、京都相手に再び3連発しますが、オフト監督と共に日本での生活に終止符を打ちました。
96/97シーズン途中に故郷のユトレヒトで試合勘を取り戻しました。翌シーズンはカンヌで26試合で6ゴールと復調を遂げますが、最下位に終わって降格しました。
1860ミュンヘンではリベロとして高評価を受け、前年11位のチームを9位に上げました。しかし翌シーズンに故障して現役を引退しました。
その後は指導者としてPSVや1860ミュンヘンなど古巣で活躍しています。

1982年4月14日ギリシャ戦にて代表デビューします。翌年はWユースで4試合出場しました。1984年欧州選手権予選は7試合に出場しますが、敗退しました。
1988年欧州選手権予選、本戦とも5試合とミケルス監督に主軸を任され初優勝に貢献。1990年W杯メンバーにも選ばれて1試合プレーしました。
1992年欧州選手権予選は3試合にとどまりました。
代表記録 42試合1得点

※:ジェラルド・ファネンブルグ(Gerald VANENBURG)
2018年1月2日:新規アップ