※1
フルネーム ※2
国籍 オランダ
出身地 ヘームスケルク
生年月日 1983・2・11
身長 175cm
体重 70kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 2001・10・6
アンドラ戦
代表背番号 10 11 23
W杯メンバー 06年 10年
ニックネーム ラフィー
個人タイトル 01/02オランダ年間最優秀若手選手
チームタイトル 01/02,03/04エールディヴィジ
01/02オランダカップ
17/18デンマークリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
99/00 アヤックス 23
00/01 アヤックス 23 27
01/02 アヤックス 23 20 14
02/03 アヤックス 23 21 18
03/04 アヤックス 10 26
04/05 アヤックス 10 22
05/06 ハンブルガーSV(ドイツ) 23 19
06/07 ハンブルガーSV(ドイツ) 23 26
07/08 ハンブルガーSV(ドイツ) 23 29 12
08/09 レアル・マドリー(スペイン) 23 31
09/10 レアル・マドリー(スペイン) 23 26
10/11 トッテナム(イングランド) 11 28 13
11/12 トッテナム(イングランド) 11 33 11
12/13 トッテナム(イングランド) 11
12/13 ハンブルガーSV(ドイツ) 23 27
13/14 ハンブルガーSV(ドイツ) 23 27
14/15 ハンブルガーSV(ドイツ) 11 24
15/16 ベティス(スペイン) 23
16/17 ミッティラン(デンマーク) 8 15
17/18 ミッティラン(デンマーク) 8
18/19 ミッティラン(デンマーク) 8
卓越した戦術眼によりトップ下でプレーしますが、ボランチやサイドと多くのポジションでプレー可能なトータルフットボールの流れを汲む司令塔です。

デ・ケンネメルスでサッカーを始めて10歳でアヤックスの下部組織に入団、17歳の時の2000年4月19日デン・ボッシュ戦にてトップリーグデビューを飾ります。00/01シーズンよりレギュラーに定着し、7得点を挙げてクライフやベルカンプの後継者と称されます。
01/02シーズンは開幕17試合14得点、特に本拠フィテッセ戦ではハットトリックを達成するなどと出色の働きを見せます。2月10日RKC戦で右ヒザを痛めて戦列を離れましたが、4シーズンぶりのリーグ優勝に貢献して初タイトルを獲得しました。
翌シーズンも4度の1試合2得点に本拠RKC戦でのハットトリックなど18得点を挙げますが、PSVとの直接対決での連敗が響き勝ち点差1で優勝を逃します。一方チャンピオンズ・リーグではフランス王者リヨン相手に2得点を挙げてベスト8に進みました。翌シーズンは中盤にポジションを戻してキャプテンに就任してリーグを制しますが、監督との確執が起こりました。
05/06シーズン、ハンブルガーSVへクラブ史上最高額での移籍となり、8月6日ニュルンベルク戦でブンデスリーガにデビュー。出場機会こそ少なかったものの9得点を挙げてチームを3位に導き、チャンピオンズ・リーグの出場権を獲得。UEFA杯でも5得点を挙げてベスト16になりました。ケガから復帰した06/07シーズンのチャンピオンズ・リーグではポルト、アーセナル、C・モスクワから得点を奪いました。翌シーズンは序盤に固め取りを見せて5年ぶりの2ケタ得点に8アシスト、UEFA杯で6試合2得点2アシストと渡独以来最高の成績を残しました。
動向に注目が集まった08/09シーズン、母方のルーツがあるスペインのR・マドリーと5年契約を結びます。9月14日ヌマンシア戦でリーガデビューしてロッベンやスナイデルと同胞とプレー、本拠S・ヒホン戦でハットトリックしますが、実力を発揮したとは言い難い出来でした。2年目はホームのサラゴサ戦にて2分間で2点を取ったのが唯一の見せ場となりました。
その後エジルの加入もありトッテナムへ移籍。2010年9月11日WBA戦でプレミアデビューし、2試合目のウルブズ戦で初得点を挙げます。アストン・ヴィラとの両試合で4得点、ノースロンドンダービーで2得点を決め、最終節リヴァプール戦ではボレーを決めてクラブにリーグ戦で1993年以来なかったアウェーでの勝利をもたらすなど、13得点8アシストを見せます。チャンピオンズ・リーグでも自らの経験をチームに還元、7試合2得点でベスト8になりました。2年目もアデバヨールやベイル、デフォーらと共に4位になりましたが、リーグを6位で終えたチェルシーがチャンピオンズ・リーグで優勝したため、同大会の出場権獲得はなりませんでした。
12/13シーズン開幕後に約5年ぶりにハンブルガーに復帰。腕章も託されクラブやサポーターとの良好な関係は変わらず、5得点9アシストで前年に降格寸前だったクラブを一ケタ順位に引き上げます。しかし翌シーズンは後半戦に点が取れず16位に終わり、2部グロイターフュルトとのプレーオフを行います。ホームでの1stレグをスコアレスドローで終えると、2ndレグでラソッガのアウェーゴールを演出し、クラブ初の2部降格を回避しました。
15/16シーズンにベティスへ。しかしコンディション調整に苦しみ、プロ入り以来一ケタの出場数に終わりました。その後デンマークで引退しています。

U−16から各年代を経験し、2001年Wユースではロッベンやフンテラールらと共に5試合出場。準決勝エジプト戦で先制点を挙げますが、逆転負けを喫しました。直後の10月6日、2002年W杯予選アンドラ戦にて18歳でフル代表デビューしますが、敗退となりました。
2004年欧州選手権予選はサブとして3得点を挙げて本大会のメンバーにも入ります。本戦では1試合の出場に終わりましたが、ベスト4進出を果たしました。
2006年W杯予選では9試合戦い、アンドラ戦とライバルのチェコ戦で2試合連続で得点を挙げます。本大会では初戦のセルビア・M戦は出場しませんでしたが、2戦目と3戦目に出場しました。決勝トーナメントでポルトガルと対戦し、1−0で敗れています。
2008年欧州選手権予選では6試合で1得点、本大会ではレギュラーとして3試合に出場しました。2010年W杯予選は7試合戦い、マケドニア戦で2得点を挙げました。本大会では5試合出ましたが、スナイデルの存在もあり90分間のプレーには至りませんでした。
2012年欧州選手権予選では8試合出場、ハンガリー戦の1点だけでしたが、4アシストと役割を果たします。本戦では出場した3試合のうち2試合が途中出場となり、背水の陣でのポルトガル戦で先発して先制点を取りますが、C・ロナウドの2発に沈みました。
2014年W杯予選は5得点を挙げますが、23人から外れました。
代表記録 109試合25得点

※1:ラファエル・ファン・デルファールト(Rafael VAN DER VAART)
※2:ラファエル・フェルディナント・ファン・デルファールト
2006年8月18日:新規アップ 2019年9月4日更新