上野 良治(Yoshiharu UENO) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 上野 良治(ウエノ ヨシハル) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 埼玉県さいたま市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1973・4・29 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 181cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 70kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(DMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | FK | ||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2000・6・6 ジャマイカ戦 |
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代表背番号 | 6 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ヨシハル | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 95,00,03ファーストステージ | ||||||||||||||||||||||||||||
95,03,04Jリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
01ナビスコカップ | |||||||||||||||||||||||||||||
03セカンドステージ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
94 横浜マリノス | 15 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
95 横浜マリノス | 5 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
96 横浜マリノス | 16 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
97 横浜マリノス 6 | 30 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
98 横浜マリノス 6 | 32 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
99 横浜F・マリノス 6 | 28 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
00 横浜F・マリノス 6 | 23 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
01 横浜F・マリノス 6 | 25 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
02 横浜F・マリノス 6 | 30 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
03 横浜F・マリノス 6 | 4 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
04 横浜F・マリノス 6 | 22 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
05 横浜F・マリノス 6 | 26 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
06 横浜F・マリノス 6 | 25 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
07 横浜F・マリノス 6 | 6 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
急所を鋭く突くスルーパスや、柔らかいボールタッチといった足元の技術に優れた天才肌のMF。ボランチに転向した後は試合の流れを読みながら絶妙な位置にパスを散らし、遠目からのミドルを放つなどプレーの幅も広がりました。 浦和生まれ。兄の影響を受けて小学2年からサッカーを始め、6年時にはFC浦和という選抜チームのメンバーに選ばれましたが辞退しました。大原中に進み、3年時には全国大会出場を果たします。決勝では強豪の東海第一中相手にゴールを挙げ優勝に貢献しました。 そして武南高に進学し、1年時から背番号10を背負いエースとして活躍、インターハイ、高校選手権にも3年連続で出場します。高校選手権では1年時に準優勝、2年時にベスト4、3年時にはベスト8と優勝にこそ手が届かなかったものの、強豪武南の象徴的な存在となり、個人的には高校選抜やユース代表に選ばれました。 早大に進学後もすぐにレギュラーとしてプレーします。1年時の大学選手権では決勝で中大に敗れ、日本一にはなれなかったものの、ベストFW賞に選ばれました。しかし2年時に就任した松永監督の構想から外れ、サッカー部を退部しました。 大学に籍を置いたまま横浜M(現横浜FM)に入団、1994年4月27日平塚(現湘南)戦でJデビューを果たし、初ゴールもマークします。翌シーズンにケガをしたのを機に復帰後も出場機会が減りましたが、スペインリーグやボリビア代表などでの実績を持つアスカルゴルタ監督により、視野の広さや展開力、フィジカルを買われボランチにコンバートされて出場機会を増やします。守備的な遠藤彰と2枚で中盤を組み、中村俊や奥といったトップ下とも素晴らしい連係を築き、00シーズンの1stステージや翌シーズンのナビスコ杯を獲得しました。 02シーズンに全試合出場を果たした後、翌シーズンに就任した岡田監督の下ではケガに若手の台頭が重なり出場機会が減少しますが、04シーズンのチャンピオンシップでは2試合ともに出場、浦和に勝利して2年連続のリーグ制覇を果たしました。 07シーズンを最後に横浜FMを退団し、無所属の状態が続いています。 U−19代表でアジアユースに出場し、2000年6月6日のハッサン2世杯ジャマイカ戦でフル代表デビューしています。 代表記録 2009年12月22日:新規アップ 2012年2月25日更新 |