上村 健一(Kenichi UEMURA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 上村 健一(ウエムラ ケンイチ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 熊本県八代市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1974・4・22 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 180cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 74kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | DF(CB) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2001・4・25 スペイン戦 |
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代表背番号 | 2 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ウエミー | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 94ファーストステージ | ||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
93 サンフレッチェ広島 | 17 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
94 サンフレッチェ広島 | 26 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
95 サンフレッチェ広島 | 46 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
96 サンフレッチェ広島 | 12 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
97 サンフレッチェ広島 19 | 3 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
98 サンフレッチェ広島 19 | 17 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
99 サンフレッチェ広島 19 | 29 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
00 サンフレッチェ広島 19 | 28 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
01 サンフレッチェ広島 19 | 25 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
02 サンフレッチェ広島 19 | 10 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
03 サンフレッチェ広島(J2) 19 | 38 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
04 セレッソ大阪 19 | 15 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
05 東京ヴェルディ 19 | 18 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
06 東京ヴェルディ 19 | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
06 横浜スポーツ&カルチャークラブ(関東1部) | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
07 ロアッソ熊本(JFL) 19 | 30 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
08 ロアッソ熊本(J2) 19 | 28 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
身長はごく普通ですが空中戦に自信を持つストッパー。1対1でも強さを発揮し、ハードなマークで相手を封じ込めます。またリーダーシップがあり、コーチングにも定評があります。 熊本県に生まれ、小学4年でサッカーを始めます。5年の時に広島などへの引越しが続きます。小学時代はFWでしたが、中学時代よりDFとしてプレーし基礎を固めました。 中学時代に全国大会に出場して脚光を浴び、松永高へ進学します。特に強豪ではありませんでしたが、2年時に広島県国体選抜チームのメンバー入りを果たしました。 卒業後に地元広島に入団。7月14日アウェーのV川崎(現東京V)戦でJリーグ初出場し、10日後の浦和戦でJ初得点を挙げました。翌94シーズンは故障で出遅れますが、復帰後にステージ優勝を掛けた大一番の6月4日アウェー清水戦ではトニーニョを徹底マークして勝利に貢献。優勝しますが、自身はじん帯を損傷したためその場には立ち会えませんでした。 その後、ポポヴィッチやフォックスらオーストラリア代表勢と最終ラインを形成しますが度重なるケガに悩み、満足にプレーできない状況が続きました。リーグでは下位に沈む苦しいシーズンが続き、天皇杯では3度の決勝進出を果たすもののいずれもタイトルを逃します。しかし99,00シーズンはDFながらいずれもチーム2位となる得点数を記録し、攻撃力を見せ付けました。 02シーズン開幕直前にも右ヒザじん帯を断裂し、チームもJ2降格となりました。しかしその後奮起すると38試合に出場して、J1復帰に貢献しました。 しかし世代交代の影響で戦力外通告を受け、C大阪へ移籍します。広島での元同僚柳本と再び最終ラインで共にプレー。その後東京Vへ移籍しましたがJ2降格となりました。 アマチュアでのプレーを経て、生まれ故郷のJFL熊本へ。30試合3得点の活躍を見せてチームは2位となってJ2昇格を果たしました。ここで28試合に出場し、現役を引退しています。 J1リーグ:246試合23得点 J2リーグ:67試合0得点 JFL:30試合3得点 西野監督によりアトランタ五輪予選に召集され、28年ぶりの本大会出場を果たしました。松田、田中誠、鈴木秀がレギュラーだったためサブとして2試合プレーします。ハンガリー戦で得点を挙げましたが、得失点差でグループリーグ敗退となりました。 2001年4月25日、トルシエ監督によりスペインとの親善試合でフル代表デビュー。その後コンフェデ杯でも3試合プレーしましたが、ケガによりW杯出場はなりませんでした。 代表記録 4試合 2007年8月30日:新規アップ 2012年2月25日更新 |