闘莉王(Marcus TULIO Tanaka)
フルネーム 田中マルクス闘莉王
国籍 日本 闘莉王
出身地
生年月日 1981・4・24
身長 185cm
体重 82kg
利き足
ポジション DF(CB)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 2006・8・9
T・トバゴ戦
代表背番号
W杯メンバー 10年
ニックネーム トゥー
個人タイトル 04〜12Jリーグベストイレブン
06Jリーグ最優秀選手
チームタイトル 04セカンドステージ
05,06天皇杯
06,10Jリーグ
07AFCチャンピオンズ・リーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
01 サンフレッチェ広島 23 17
02 サンフレッチェ広島 6 22
03 水戸ホーリーホック(J2) 28 42 10
04 浦和レッズ 4 21
05 浦和レッズ 4 26
06 浦和レッズ 4 33
07 浦和レッズ 4 26
08 浦和レッズ 4 31 11
09 浦和レッズ 4 31
10 名古屋グランパス 4 29
11 名古屋グランパス 4 31
12 名古屋グランパス 4 33
13 名古屋グランパス 4 27
14 名古屋グランパス 4 31
15 名古屋グランパス 4 30
16 名古屋グランパス 4
17 京都サンガ(J2)    
1対1や空中戦に強く、最終ラインで相手に立ちはだかる高さと強さが同居した本格派CB。また、ポジショニングやタイミングに注力したセットプレー時のヘディング、弾丸のようなFK、迫力満点のドリブル突破などDFとしての攻撃力は日本最高峰といえます。
あふれる闘志とリーダーシップで、味方を叱咤、鼓舞して精神的支柱になります。

弁護士である厳格な父親の下で育ったため勉学にも力を入れ、中学時代はサンパウロ州の数学コンクールで入賞しました。高校時代は昼間に仕事をして夜に学校に通っていたため、週末しか練習時間がないという状況でしたが、プロへの夢を捨てませんでした。
16歳の時、クルゼイロの下部組織入りが決まっていたものの、宗像監督が監督を務める渋谷幕張高のブラジルでの入団テストに合格します。学費免除など好待遇で編入し、サッカー部に入部。そして3年生で高校選手権に外国人留学生(1歳年長)として出場しました。
卒業後の2001年、祖父が広島県出身であったことから広島に入団。3月11日の鹿島戦で途中出場して先制点を挙げる鮮烈なJリーグデビューを飾りました。2年目も22試合出場と、主軸への足場を固めていましたが、不運にもJ2に降格しました。
その後3人までしか登録できない外国籍選手の保有枠の問題があったため、水戸へレンタル移籍しました。ここで持ち前の攻撃力を発揮し、Jリーグ史上初となるDF登録選手による2ケタ得点をマーク。本業の守備でもチームの失点を減らし、最終ラインに安定感をもたらしました。
2004年に1億円の移籍金で浦和へ。2ndステージ優勝に貢献してベストイレブンに選ばれました。05シーズンは優勝した天皇杯こそケガで離脱したものの、エメルソンや田中達らFWが離脱する中チーム最多の9得点を挙げ、守備でもリーグ最小失点を誇るDFラインを統率し、ベストイレブンに選ばれます。06シーズンもFWワシントンに次ぐ7得点を挙げてリーグ初優勝に貢献して年間最優秀選手に選ばれました。しかし07シーズンはケガや出場停止などでリーグ最終節やインターコンティネンタル杯などの欠場が多かったのが悔やまれるところです。
それでも08シーズンは、エンゲルス監督によりボランチとして起用されるなど持ち前の攻撃力を見せ、チーム最多の11得点を挙げます。しかし09シーズンに就任したフィンケ監督との折り合いが悪くなり退団、攻撃サッカーを標榜するストイコヴィッチ監督の熱望により名古屋へ加入します。そしてセットプレーではケネディと共に主導権を握り、ホーム浦和戦など6得点を挙げ、チーム初のリーグ制覇に役割を果たしました。12シーズン以降はFWでプレーすることも多く、神戸戦で1試合4得点を見せました。13シーズンも優勝する広島とのアウェー戦でチームを敗戦から救う同点弾を挙げ、14シーズンはリーグとナビスコ杯合わせて10得点を挙げました。
6年間名古屋を支えて15シーズン限りで退団します。翌シーズンに低迷するチームに復帰しますが、7試合のプレーも実らずクラブ初の降格となり退団しました。
17シーズンにJ2京都と契約しています。

2003年10月に日本国籍を取得し、「マルクス・トゥーリオ・ユウジ・ムルザニ・タナカ」から「闘莉王」になります。2004年2月8日イラン五輪代表戦でのUー23代表デビュー以降はチームに欠かせない存在となり、同年のアテネ五輪でも全3試合に出場しました。フル代表入りも期待されましたが、ジーコ監督に技術面を問題視され、召集されませんでした。
しかしオシム監督から初めて代表召集を受け、2006年8月9日トリニダード・トバゴ戦でフル代表デビュー。アジア杯はケガで棒に振りますが、2010年W杯予選では12試合3得点と大黒柱となり、帰化から7年で檜舞台の切符をつかみました。そして4試合で2失点と各国の屈強な相手と互角に渡り合い、日本の2大会ぶりのベスト16入りに貢献しました。
代表記録

※:バールミイラ・ド・オエステ(ブラジル)
2006年9月24日:新規アップ 2017年5月9日更新