都築 龍太(Ryota TSUZUKI) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 都築 龍太(ツヅキ リョウタ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 奈良県生駒郡 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1978・4・18 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 185cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 81kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | GK | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2001・6・4 ブラジル戦 |
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代表背番号 | 18 23 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | リョウタ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 07Jリーグベストイレブン | ||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 03ナビスコカップ | ||||||||||||||||||||||||||||
05,06天皇杯 | |||||||||||||||||||||||||||||
06Jリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
07AFCチャンピオンズ・リーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
97 ガンバ大阪 23 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
98 ガンバ大阪 12 | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
99 ガンバ大阪 23 | 2 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
00 ガンバ大阪 23 | 19 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
01 ガンバ大阪 23 | 29 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
02 ガンバ大阪 23 | 12 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
03 浦和レッズ 23 | 20 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
04 浦和レッズ 23 | 19 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
05 浦和レッズ 23 | 33 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
06 浦和レッズ 23 | 11 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
07 浦和レッズ 23 | 33 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
08 浦和レッズ 23 | 33 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
09 浦和レッズ 23 | 23 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
10 浦和レッズ 23 | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
10 湘南ベルマーレ 39 | 15 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
至近距離からのシュートに対する素早い反応や正確なポジショニング、高精度のフィードキックで攻撃の起点となるなど攻守に活躍するGK。気性の激しさも特徴です。 友達の影響を受け、小学2年時にサッカーを始めます。身長が高かったこともあり当初からGKとしてプレーしていました。5年時に6年の大会に出場するなどレベルの高さを見せつけていましたが、その大会に敗れたことで勝利への欲求が湧き、本格的に取り組むようになります。中学時代は3年時に全国大会へ出場し、2回戦でFW高原擁する東海一中に敗れました。 高校は国見へ進みます。強豪ゆえ試合に出られるようになったのが3年からでしたが、高校選手権に出場。ここではGK南やMF倉貫擁する静岡学園に敗れ、ベスト8に終わりました。 そして多数のオファーから熱心に勧誘してきたG大阪に入団。2年目の1998年11月14日磐田戦でJリーグデビューするも、この試合のみでシーズンが終わりました。00シーズン途中に早野監督の下で正GK岡中からポジションを奪い、天皇杯でベスト4になりました。しかし02シーズンに就任した西野監督と起用法をめぐり対立して構想外となりました。 出場機会を求め浦和へ移籍します。以降山岸範と激しいレギュラー争いを展開し、07シーズンはアジアを制覇、クラブW杯でもミランと肉薄するなどインパクトを残し、Jリーグベストイレブンに選出されました。08シーズンは第2節名古屋戦で自身のスローが相手に渡り、そのままゴールを許す信じがたいミスを犯しますが、その後もゴールマウスに立ちました。 しかし09シーズンの9月に右ヒザの手術を行い山岸範にポジションを奪われ、翌年に湘南へレンタル移籍、厳しい情勢のチームを最後尾から支えました。所属元の浦和との契約が切れ移籍先を探していましたがオファーはなく、32歳で現役生活を終えました。 2000年シドニー五輪では本大会登録メンバーに入りますが、オーバーエージでメンバーに入った楢崎の存在により出場機会はありませんでした。 フル代表デビューは2001年6月4日、コンフェデ杯ブラジル戦。後に同僚になるワシントンをはじめ、M・アウヴェス、J・バティスタらを擁するチーム相手を無失点に抑えました。 4ヶ月後のセネガル戦で2失点しW杯出場は叶いませんでしたが、その後もジーコ、岡田両監督に召集を受け、2010年W杯予選はオーストラリア戦に先発出場します。しかしケガによる離脱に川島の成長もあり、本大会メンバー入りはなりませんでした。 代表記録 6試合 2009年6月6日:新規アップ 2012年3月1日更新 |