フィリップ・トルシエ(Philippe TROUSSIER)
フルネーム フィリップ・トルシエ
国籍 フランス※  
出身地 パリ
生年月日 1955・3・21
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1983〜84 INFヴィシー
1984〜87 アレンソン
1987〜89 レッドスター93
1989〜89 クレテイユ
1989〜92 ASECミモザ(コートジボワール)
1993〜93 コートジボワール代表
1994〜94 カイザーチーフス(南アフリカ)
1994〜95 CAラバト(モロッコ)
1995〜97 FUSラバト(モロッコ)
1997〜97 ナイジェリア代表
1997〜98 ブルキナファソ代表
1998〜98 南アフリカ代表
1998〜02 日本代表(U−20、U−23兼任)
2003〜04 カタール代表
2004〜05 マルセイユ
2005〜05 モロッコ代表
2008〜10 FC琉球総監督(日本)
2011〜13 深セン(中国)
2014〜14 スファクシアン(チュニジア)
2015〜15 杭州緑城(中国)
獲得タイトル 89/90〜91/92コートジボワールリーグ
89/90コートジボワールカップ
90UEOAカップ
00AFCアジアカップ
現役時代はDFとしてレッドスターなどフランス国内でプレー。トップリーグ経験はなく、1983年にヒザの故障により28歳の若さで現役を引退しました。

アフリカの各国で結果を出し続けたことで、「白い呪術師」の異名をとります。気性が激しく、ピッチ内外での高圧的な言動で、選手やフロント、協会との衝突が絶えません。
日本国内で代名詞といえる「フラット3」は、3人のDFを横一線に並べて中盤まで上げます。前線と中盤でプレスをかけてボールを奪い、相手の陣形が整う前にカウンターを仕掛けます。
3バックがストッパー2人とリベロまたはスウィーパーを配置し、フラットで守る場合は4バックがスタンダードであるだけに異質な戦術で、練習ではラインコントロールを徹底させます。
オフサイドトラップを多用するので、ミスが致命的な結果につながるリスクも孕みますが、日本では身体能力で差がある世界の強豪との距離を縮める策といえます。
「オートマティズム」もキーワードとなり、スペースをつくる選手と、そこに入ってくる選手との流動的なパス交換で局面を打開する攻撃を標榜しました。
フォーメーションは3−5−2、3−4−1−2、3−4−2−1で、左サイドに攻撃的、右サイドに守備的な選手を配置する傾向があります。

引退後、フランス・ナショナル・テクニック・ディレクションで戦術を学び、マッサージ理学療法士資格やスポーツ科学の修士号を取得しました。序盤は母国で経験を積みますが、その中でU−15フランス代表を率い、1989年には3部のレッドスターを2部に昇格させました。
1989年からコートジボワールへ渡り、名門ASECを指揮してリーグ3連覇に導きます。この結果を受けて代表に就任しますが、協会と衝突して1年足らずで辞任しました。
その後南アフリカやモロッコなどアフリカのクラブを渡り歩き、1997年にナイジェリア代表に就任。アトランタ五輪を制した「スーパーイーグルス」の中心であるFWカヌやアムニケ、MFオコチャ、オリセーなどタレントを数多く擁し、1998年W杯予選を首位で突破します。しかしメンバー構成や戦術に政治家が介入する協会と対立して9月に解雇されました。10月にブルキナファソ代表に就任し、翌年2月に自国開催となったアフリカ選手権でベスト4になりました。
南アフリカ代表には1月に就任しますが、アフリカ選手権終了後の3月から実質的にチームを率います。W杯ではCBのラデベをフォアリベロにしますが、開催国フランス戦の3失点が響き、デンマークとサウジアラビアに引き分けるものの、グループリーグ敗退となりました。
その後日本協会からオファーを受けます。当初はヴェンゲル監督が候補でしたが、アーセナルとの契約で難航、彼やフランス協会の助言もあり9月10日に就任します。フル代表は10月28日エジプト戦が初陣となり、中山が決めたPKを守って勝利しました。
12月のアジア大会は、ネパールとインドとの1次リーグを突破。2次リーグで敗退しますが、年齢制限なしのクウェート、UAE、韓国に対し、日本はU−21で臨んでいました。
1999年4月にナイジェリアでのWユースに臨みます。本来は清雲監督が率いるはずでしたが、辞任したため自らが兼任することになります。ケガの稲本を遠藤がカバーし、左サイドで本山が躍動、カメルーンとの初戦こそ敗れますが、イングランド、ポルトガル、メキシコ、ウルグアイを次々に破りました。決勝ではMFシャビ、GKカシージャスを擁するスペインに0−4と大敗しましたが、世界大会での決勝進出は日本史上初の快挙でした。また、活躍した小野、高原、稲本に代表されるこの世代は、やがて「黄金」と呼ばれるようになりました。
シドニー五輪1次予選は香港で行われ、フィリピン、ネパール、マレーシア、香港相手に計26得点1失点と圧倒的な強さで終えました。続く東京での4試合はコパ・アメリカに臨むフル代表の指揮を執るため山本コーチに託し、チームも4試合で26得点無失点と圧倒的な成績を収めましたが、遠藤に加え小野が負傷したのが痛手となりました。最終予選は中田英を招集し、平瀬も1次予選からの好調をキープ。カザフスタン、タイとの4戦全勝で突破を果たしました。
フル代表では7月のコパ・アメリカに招待国として参加します。ボランチを固定できずペルーと開催国パラグアイに連敗、ボリビアに引き分けてグループリーグで敗退し、懐疑論が沸き起こりました。これを境に長年代表の最終ラインを支えた井原が離れ、世代交代が進みました。
アジア杯予選は中山を軸にカズを復帰させ高原を招集、シンガポール、ブルネイ、マカオ相手に3連勝します。その後の親善試合は中国と引き分け、韓国に敗れました。
2000年6月のハッサン2世杯では、ベストメンバーのフランス相手に森島が先制、西澤がボレーを決めますが、PK戦の末敗れました。その後ジャマイカに4−0と快勝しました。
シドニー五輪は1997年Wユースから宮本、中村俊、明神、柳沢、準優勝した1999年Wユース組、最終予選で活躍した平瀬、中澤、2度目の中田英と松田、オーバーエージにGK楢崎、DF森岡、MF三浦淳を招集。南アフリカには高原の2得点で勝ち、スロヴァキアにも中田英と稲本の得点で競り勝ちました。ブラジルには早々に先制されそのまま敗れますが、南アフリカが敗れたことでグループリーグを突破しました。準々決勝アメリカ戦は累積警告による欠場から中田英が復帰し、柳沢と高原が得点を挙げますが、終了間際に同点にされ、選手交代のカードも1枚残してしまいました。その後のPK戦では試合中に負傷した楢崎が血まみれでゴールを守りますが、唯一のミスが大黒柱の中田英と皮肉な結果に終わりました。
10月のアジア杯では五輪のチームと1998年W杯組の名波、川口、服部を融合させます。初戦でサウジアラビアを名波のミドルなどで4−1と圧倒。ウズベキスタン戦ではトップ下の森島の存在もあり、C大阪で連携する西澤、さらに高原がハットトリックを決めるなど8得点を挙げました。カタールには引き分けますが、イラクを名波の2得点などで振り切り、中国にはオウンゴールに助けられ、決勝サウジアラビア戦で唯一完封して2大会ぶりの優勝を果たしました。
2001年3月24日のフランス戦では5失点と屈辱的な敗戦を喫し、スペイン戦では3バックに加え、MF服部や波戸を最終ラインに下げる超守備的な布陣で臨むも、0−1で敗れました。
コンフェデ杯では鈴木隆や戸田が台頭、カナダとカメルーンに無失点で勝利し、ブラジル戦ではスコアレスドローとなります。雨中の準決勝オーストラリア戦では中田英がFKを決め、勝利を置き土産にスクデットを争うローマに合流するため離脱しました。フランス戦でヴィエラに決められますが、フル代表の公式戦初となる決勝に進出し、失点はこの1点にとどめました。
その後もパラグアイ、ユーゴ、ナイジェリア、イタリアと強豪とのマッチメークを実現させ、ウクライナ戦では帰化したアレックスをデビュー戦で先発させて勝利すると、アウェーのポーランド戦でも終始圧倒、4年ぶりに召集した市川の活躍もあり31年ぶりに欧州で勝利を挙げました。
W杯メンバー発表は高原が病気で離脱し、有力候補だった中村俊、中澤が落選する一方、ベテランの中山と秋田を召集します。ベルギー戦ではヴィルモッツのバイシクルで先制されますが、鈴木がつま先で、稲本が左足でネットを揺らしました。しかし森岡の負傷で最終ラインにほころびが生じ、同点に追いつかれました。ロシア戦からは宮本がそのまま3バックの中央と腕章を受け継ぎ、稲本の得点を守って大会初勝利を挙げました。長居でのチュニジア戦では地元森島の先制と中田英のヘッドで快勝しました。トルコ戦では主力の柳沢と鈴木ではなく、虫垂炎で出遅れていた西澤とアレックスに2トップを組ませます。後者はFKでバーを叩くなど個の力を見せるも得点にはつながらず、前半のみのプレーに終わりました。結局前半のセットプレーからの失点を覆せず、16強にとどまりました。
その後、アフリカ諸国や日本での実績を評価され、フランス代表監督の最終候補に挙がっていましたが、惜しくも落選しました(ジャック・サンティニが就任)。
カタール代表を経てマルセイユに就任。出だしは好調を維持し、冬の移籍市場では日本代表で重用した中田浩を呼びます。しかしリザラズやぺドレッティといった主力と確執が生まれるなどチーム内の雰囲気が悪化、欧州カップの出場権を逸して半年で解任されましたが、当時17歳でプロデビューしたばかりのMFナスリに出場機会を与え、才能を引き出しました。
再びアフリカ諸国の代表を務めた後、2006年W杯時では来日してコメンテーターに就くなど日本との関係を続け、2007年12月からFC琉球の総監督に就任しました。
深センではFW巻を呼びますが結果が出ず降格し、その後2シーズンも昇格はならず退任しました。チュニジアを経て2014年から再び中国で活動しています。
※:コートジボワール国籍もあり

2017年9月16日:新規アップ

98南アフリカ代表(W杯出場)
マシンガ マッカーシー
フォーチュン モシュー
ニャティ オーガスティン
  ラデベ  
ジャクソン イッサ
  フィッシュ  
  フォンク  

99U−20日本代表(Wユース準優勝)
高原直泰 永井雄一郎
小野伸二 小笠原満男
本山雅志 酒井友之
  遠藤保仁  
中田浩二 辻本茂輝
  手島和希  
  南雄太  

99日本代表(コパ・アメリカ出場)
城彰二 呂比須ワグナー
名波浩 伊東輝悦
服部年宏 望月重良
  田坂和昭  
秋田豊 森岡隆三
  井原正巳  
  楢崎正剛  

00U−23日本代表(五輪ベスト8)
高原直泰 柳沢敦
  中田英寿  
中村俊輔 酒井友之
稲本潤一 明神智和
中澤佑二 松田直樹
  森岡隆三  
  楢崎正剛  

00日本代表(アジア杯優勝)
高原直泰 西澤明訓
  森島寛晃  
中村俊輔 望月重良
名波浩 明神智和
服部年宏 森岡隆三
  松田直樹  
  川口能活  

01日本代表(コンフェデ杯準優勝)
西澤明訓 鈴木隆行
  中田英寿  
小野伸二 波戸康弘
戸田和幸 稲本潤一
中田浩二 松田直樹
  森岡隆三  
  川口能活  

02日本代表(W杯ベスト16)
鈴木隆行 柳沢敦
  中田英寿  
小野伸二 明神智和
戸田和幸 稲本潤一
中田浩二 松田直樹
  宮本恒靖  
  楢崎正剛