クラウス・トップメラー(Klaus TOPMOLLER)
フルネーム クラウス・トップメラー
国籍 ドイツ  
出身地 リフェニッヒ
生年月日 1951・8・12
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1987〜88 サルムロー
1988〜90 ウルム
1990〜91 アウエ
1991〜93 マンハイム
1993〜94 フランクフルト
1994〜99 ボーフム
2001〜03 レヴァークーゼン
2003〜04 ハンブルガーSV
2006〜08 ジョージア代表
獲得タイトル 02ドイツ年間最優秀監督
現役時代はFWとしてカイザースラウテルンなどに在籍、ブンデスリーガ通算208試合で108ゴールを挙げますが、タイトル獲得はなりませんでした。晩年にはアメリカでもプレーしました。
代表でも3試合に出場しています。

エンジニアの学士を保持する卓越したインテリジェンスを軸に、攻撃的なスタイルを貫きます。ドイツで主流の3−5−2だけではなく、4−4−2や4−2−3−1と柔軟に対処します。
また、選手との対話も重視し、モチベーターとしても優れています。

1987年にサルムローで監督業を始めます。以降は小クラブを転々としましたが、93/94シーズンにフランクフルトに就任します。直後に浦和へ移籍するMFバインやガーナの英雄イエボアを中心にたたみかけるような攻撃サッカーを展開、出足は良かったものの、思ったことを口に出す性格が災いして選手との関係が破綻し、成績不振により途中で解任されました。
1994年にボーフムに就任。昇格と降格を味わうものの、96/97シーズンに5位となりUEFA杯出場権を確保すると、ドイツ代表ヴォズやトルコ代表バストゥルクらの活躍により、翌シーズンの同大会でベスト16に進出しました(アヤックスに2戦合計4−6で敗退)。しかし国内リーグでは順位が伸びず、99/00シーズンに降格したため解任されました。
00/01シーズンにレヴァークーゼンに就任。中盤まで首位を走り、冬に加入したルシオが5ゴールを記録するなど自らの戦術とシンクロしますが、最終的には5位で終えました。
2年目は古巣ボーフムからバストゥルクを引き抜いてトップ下に据え、一列下がったバラック、さらにルシオの攻撃参加とセンターラインが強化されます。また、右ではシュナイダーあるいはセベッセンが右SBとWBの役割を担って4バックと3バックを自在にし、左のゼ・ロベルトはサイドに張って2列目を担う左右非対称の布陣を組んで流動的なサッカーを展開します。
チャンピオンズ・リーグでは大会6ゴール3アシストのバラック、2ゴール5アシストのシュナイダーを中心に1次リーグを2位、2次リーグを1位で通過します。そして準々決勝でリヴァプール、準決勝でマンチェスター・Uとプレミア勢を撃破しました。R・マドリーとの決勝は主力のゼ・ロベルトとノヴォトニーを欠きます。ラウールに先制され、ルシオのヘディングで同点に追い付くものの、ジダンに左足ボレーを決められ準優勝に終わりました。国内リーグはドルトムント、国内カップはシャルケにいずれもあと一歩のところでタイトルをさらわれ「ネヴァークーゼン」と皮肉られましたが、世界を魅了した攻撃サッカーが称賛され、ドイツの最優秀監督に選出されました。
3年目はバイエルンからバラックとゼ・ロベルトを引き抜かれます。チャンピオンズ・リーグは2次リーグで終わり、国内リーグでは過密日程で残留争いになるほど低迷して解任されました。
03/04シーズンの途中にハンブルガーSVに就任しますが、8位と平凡な成績に終わりました。2年目は開幕8試合で2勝6敗と低迷して解任されました。
その後、フランス人のジレス監督の後任としてジョージア代表に就任しますが、2006年W杯、2008年欧州選手権をいずれも予選で敗退し、辞任しています。

2016年10月15日:新規アップ

01/02レヴァークーゼン(CL、リーグ、カップ2位)
キルステン ノイヴィル
  バストゥルク  
ゼ・ロベルト シュナイダー
バラック ラメロウ
プラセンテ ルシオ
  ノヴォトニー  
  ブット  

03/04ハンブルガーSV
ロメオ(高原) バルバレズ
  ヤロリム  
バインリヒ マハダヴィキア
  マルトリツ  
ホラーバッハ ヴィッキー
ウィファルシ ホークマ
  ヴェフター