曽ヶ端 準(Hitoshi SOGAHATA)
フルネーム 曽ヶ端 準(ソガハタ ヒトシ)
国籍 日本  
出身地 茨城県鹿嶋市
生年月日 1979・8・2
身長 187cm
体重 80kg
利き足
ポジション GK
FK PK  
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 2001・11・7
イタリア戦
代表背番号 12 20 23
W杯メンバー 02年
ニックネーム ソガ
個人タイトル 01ナビスコカップニューヒーロー賞
02Jリーグベストイレブン
03Jリーグフェアプレー個人賞
チームタイトル 98,00,01セカンドステージ
98,01,08,16天皇杯
98,00,01,07〜09,16Jリーグ
00,01,16ファーストステージ
00,02,11,12ナビスコカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
98 鹿島アントラーズ 29
99 鹿島アントラーズ 28
00 鹿島アントラーズ 28
01 鹿島アントラーズ 21 21
02 鹿島アントラーズ 21 30
03 鹿島アントラーズ 21 30
04 鹿島アントラーズ 21 27
05 鹿島アントラーズ 21 34
06 鹿島アントラーズ 21 22
07 鹿島アントラーズ 21 32
08 鹿島アントラーズ 21 34
09 鹿島アントラーズ 21 34
10 鹿島アントラーズ 21 34
11 鹿島アントラーズ 21 34
12 鹿島アントラーズ 21 34
13 鹿島アントラーズ 21 34
14 鹿島アントラーズ 21 34
15 鹿島アントラーズ 21 24
16 鹿島アントラーズ 21 34
17 鹿島アントラーズ 21 23
18 鹿島アントラーズ 21    
キャッチング、セービング、ハイボールへの対応などの基本的なスキルはもちろん、恵まれた体格に加えシュートへのポジショニングと鋭い反応により守備範囲も広く、処理後の素早いフィードで攻撃の起点にもなる鹿島生え抜きの守護神です。

茨城県鹿嶋市出身。小学1年で地元のチームに入ってサッカーを始めます。鹿島中では3年の時にU−16に招集され、アジアユースを戦いました。
鹿島高進学と同時に鹿島ユースへ入団。3年時にはトップチームのカンタレリーGKコーチに指導され、1998年にGK市川友以来クラブ2人目のトップチーム昇格を果たします。
当時は後にトルシエ監督の下で代表デビューを果たす高桑が正GKとして君臨しており、1年目のリーグ戦での出番はありませんでした。翌シーズンの5月に高桑が戦線を離脱、8日の福岡戦でJリーグデビューを飾りますが、彼の復帰後は再びバックアッパーとなり、翌00シーズンのJリーグ史上初の3冠にも貢献したとは言い難い結果となりました。
しかし01シーズンに高桑からポジションを奪ってリーグ連覇に貢献、02シーズンはベストイレブンに選ばれるなどリーグ屈指のGKとしての地位を確立されました。
このシーズン以降タイトルから遠ざかったものの、06シーズンの開幕前にヒザの負傷で出遅れた以外は一貫してゴールを守り続けます。岩政、青木、内田篤など優秀な若手DFの加入もあり、07シーズンにリーグと天皇杯の2冠を達成しました。翌08、09シーズンは連覇を飾るなど、14シーズンまで7年連続でリーグ全試合にフル出場しました。
15シーズンは佐藤昭の台頭でフル出場が途絶えますが、16シーズンは正守護神に返り咲いて7年ぶりのシャーレを手中にしました。これを受けて出場したクラブW杯では決勝でC・ロナウドにハットトリックを献上しますが、天皇杯で川崎Fに競り勝ちました。
17シーズンは韓国代表クォン・スンテの加入で23試合にとどまりました。

U−16から召集されますが、1999年Wユースでは南と榎本達のバックアップメンバーとしてナイジェリアに帯同しました。2000年シドニー五輪も登録メンバーから外れました。
それでも2001年11月7日のイタリアとの親善試合で代表デビューします。トッティ、デル・ピエロ、インザーギがそろったチームを1点に抑え、トラパットーニ監督からも評価されました。W杯直前のスロヴァキア戦では完封勝利を挙げ、本大会メンバー入りも果たしました。
ジーコ体制になってからも2試合に出場し、2004年アテネ五輪ではオーバーエージでMF小野と共に招集されて3試合ゴールマウスを守りましたが、グループリーグで敗れました。
2006年1月の合宿でヒザの筋肉が炎症して離脱しました。
代表記録

2009年4月18日:新規アップ 2017年12月7日更新