ソクラテス(SOCRATES) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | ※ | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | ブラジル | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | べレン | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1954・2・19 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 192cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 79kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(OMF) |
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FK PK | FK PK | ||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | 代表 | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1979・5・17 パラグアイ戦 |
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代表背番号 | 8 18 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 82年 86年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ドトール=医師 | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 83南米年間最優秀選手(エル・ムンド紙) | ||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 79,82,83サンパウロ州選手権 | ||||||||||||||||||||||||||||
86リオデジャネイロ州選手権 | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
73 ボタフォゴ | |||||||||||||||||||||||||||||
74 ボタフォゴ | |||||||||||||||||||||||||||||
75 ボタフォゴ | |||||||||||||||||||||||||||||
76 ボタフォゴ | 19 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
77 ボタフォゴ | 16 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
78 ボタフォゴ | 22 | 10 | |||||||||||||||||||||||||||
79 コリンチャンス | |||||||||||||||||||||||||||||
80 コリンチャンス | 16 | 13 | |||||||||||||||||||||||||||
81 コリンチャンス | 1 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
82 コリンチャンス | 9 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
83 コリンチャンス | 20 | 15 | |||||||||||||||||||||||||||
84 コリンチャンス | 13 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
84/85 フィオレンティーナ(イタリア) | 25 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
85 フラメンゴ | |||||||||||||||||||||||||||||
86 フラメンゴ | 11 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
87 フラメンゴ | |||||||||||||||||||||||||||||
88 サントス | 5 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
89 サントス | |||||||||||||||||||||||||||||
04/05 ガーフォース・タウン(イングランド10部) | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
長身で懐の深いボールキープと広い視野、創造力を持ち、味方に正確なパス(特にヒールパスの技術は世界最高を誇ります)を送り、自らも多くの得点を挙げる攻撃的MFです。 長髪にヒゲを蓄えた独特の風貌、医大卒で医師免許も所持する知性、実弟ライーともども代表の中心選手であるなど、名手を多数輩出するブラジルでも不世出の選手の一人といえます。 サンパウロの医科大に在学中の20歳の時に名門ボタフォゴでプロデビューを果たします。1976年州選手権で15得点を挙げて得点王に輝きました。 1978年にコリンチャンスへ加入し、3度の州選手権制覇を達成します。W杯での強い印象も相まって多くのオファーが舞い込み、イタリアのフィオレンティーナへの移籍が決まります。 この時期の国内は軍事政権の支配下にあり、民主化の政治活動に熱心だった自身は渡欧する前に「もし自由選挙が行われるなら海外移籍を拒否してもよい」と演説します。1980年代後半に民主化への道がすすみ、1989年に自由選挙による大統領選が行われたのです。 セリエAではアントニョーニやマッサーロ、パサレラなどと共にプレーし、25試合6得点の活躍を見せますが、1年で母国へ復帰。86シーズンにはジーコと共にチームを州選手権制覇に導きます。その後サントスを経て古巣ボタフォゴへ戻り35歳で現役生活を終えました。 引退後はサンパウロから300km離れたベイラオン・プレートで診療所を開き、スポーツ選手の治療に携わります。その傍ら、2004年末にはイングランド北部ガーフォース・タウンにてPMとして現役復帰を果たし、11月20日T・アルビオン戦で途中出場して12分間プレーしました。 2011年12月4日、腸の感染症にて57歳の若さで亡くなっています。 代表デビューは1979年5月17日パラグアイ戦。1982年W杯ではジーコ、T・セレーゾ、ファルカンと「黄金の中盤」を形成、ファルカンと中盤でバランスを取り、P・ロッシにハットトリックを決められた2次リーグのイタリア戦での先制点など、5試合2得点の成績を残しました。 翌年のコパ・アメリカで準優勝になり、2度目の出場となった1986年W杯ではファルカンとT・セレーゾがメンバーから外れ、ジーコも負傷がちという中で腕章を腕に巻き司令塔として活躍します。しかしPK戦にもつれたフランスとの試合でミスをして、ベスト8に終わりました。 代表記録 60試合22得点 ※:ブラジレイロ・サンパイオ・ジ・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリヴェイラ 2011年12月6日:新規アップ 2012年9月2日更新 |