ダビド・シルバ(David SILVA)
フルネーム ダビド・ヒメネス・シルバ
国籍 スペイン
出身地 アルギネグイン
生年月日 1986・1・8
身長 170cm
体重 67kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK FK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー
代表背番号 21
W杯メンバー 10年 14年
18年
ニックネーム マジシャン
個人タイトル 11/12,17/18プレミアリーグベストイレブン(PFA)
12UEFA欧州選手権ベストイレブン
チームタイトル 03FIFAU−17世界選手権
04UEFAU−19欧州選手権
07/08コパ・デル・レイ
08,12UEFA欧州選手権
10FIFAワールドカップ
10/11,18/19FAカップ
12,14,18,19プレミアリーグ
14,16,18,19イングランドリーグ・カップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
03/04 バレンシアB(2部) 14
04/05 エイバル(2部) 35
05/06 セルタ 16 34
06/07 バレンシア 21 36
07/08 バレンシア 21 34
08/09 バレンシア 21 19
09/10 バレンシア 21 30
10/11 マンチェスター・シティ(イングランド) 21 35
11/12 マンチェスター・シティ(イングランド) 21 36
12/13 マンチェスター・シティ(イングランド) 21 32
13/14 マンチェスター・シティ(イングランド) 21 27
14/15 マンチェスター・シティ(イングランド) 21 32 12
15/16 マンチェスター・シティ(イングランド) 21 24
16/17 マンチェスター・シティ(イングランド) 21 34
17/18 マンチェスター・シティ(イングランド) 21 29
18/19 マンチェスター・シティ(イングランド) 21 33
19/20 マンチェスター・シティ(イングランド) 21    
素早いドリブルと正確なパスでポゼッションを優位にし、自らフィニッシュにも絡みます。戦術的な柔軟性や守備面での貢献も大きい現代的なアタッカーです。

カナリア諸島のアルギネグインに生まれます。15歳で家族と共にバレンシア州へ移住し、自身は下部組織へ入団します。その際、父フェルナンドはカナリア諸島での政治家の地位を捨て、バレンシアのクラブ内で警備員を務めることになりました。
Bチームでプレーした後エイバルへレンタルされ、35試合5ゴールと活躍してセルタに移ります。2005年8月28日開幕節のマラガ戦でリーガデビューし、本拠エスパニョール戦で初ゴール。攻撃サッカーを標榜するバスケス監督の下、F・バイアーノやJ・ゲレーロ、カノッピオら経験豊富な攻撃陣と共にチームをけん引し、昇格組ながらUEFA杯出場権を獲得しました。
他チームで実績を作ってバレンシアに戻り、トップチームのメンバーになります。チャンピオンズ・リーグ予備予選3回戦ザルツブルク戦2ndレグでゴールを決めてグループリーグに進むと、インテルやチェルシー相手にゴールを奪う素晴らしい活躍を見せました。
2007年6月には7年の長期契約を結び、MFホアキンやFWビジャと共にクラブで重要な選手の一人として位置付けられます。07/08シーズンはチームが低迷する中リーグ戦で好成績を挙げて1部残留に貢献、また国内カップを制して自身初タイトルを獲得しました。
08/09シーズンは左足首の手術により19試合でしたが、通算4ゴールのうち首都の2クラブから3ゴールを挙げてチームの勝利に貢献。翌09/10シーズンは自己最多の8ゴールを挙げ、クラブ4年ぶりのチャンピオンズ・リーグ出場権を置き土産に退団しました。
2010年8月14日トッテナムとの開幕戦でプレミアデビューし、敗れはしますがマンチェスター・ダービーでゴールを決めるなど、チャンピオンズ・リーグ出場権を獲得します。また、FA杯でも1ゴール4アシストでクラブ42年ぶりの優勝に貢献しました。
2年目はチャンピオンズ・リーグこそ6試合1ゴール2アシストでグループリーグ3位になり、ヨーロッパリーグも4試合1ゴールでした。しかし国内リーグは開幕から2連発し、マンチェスター・Uやアーセナル戦など6ゴールします。また、終盤のマンチェスター・ダービーや最終節QPR戦などリーグ最多の15アシストで優勝の原動力となり、クラブの年間MVPに輝きました。
3年目はフルハム戦で2ゴール、チェルシー戦で2アシスト、FA杯準々決勝バーンズリー戦で1ゴール2アシストと一人で試合を決定づける働きを随所に見せましたが、タイトルにはつながりませんでした。4年目はアーセナルやリヴァプール戦でゴールを決め、チャンピオンズ・リーグでも王者バイエルン相手に1ゴール1アシストを見せました。
5年目はC・パレス戦からの3戦連発やチェルシー戦での同点弾、ニューカッスル相手の2ゴール1アシストなどキャリア初の2ケタゴールを達成しました。6年目もチェルシー戦など3度の1試合2アシストを見せて通算11アシストをマークしました。
スキンヘッドにして臨んだ8年目はマンチェスター・ダービー含む3連発など9ゴール11アシストと、デ・ブルイネ、L・サネ、スターリングらとの猛威で4年ぶりに優勝しました。9年目も6ゴール8アシストで連覇し、FA杯でも決勝でボレー、リーグ杯でもチェルシーをPK戦で退け、イングランド史上初の国内3冠を成し遂げました。
19/20シーズンは、退団したコンパニから腕章を引き継いでいます。

2002年のU−17欧州選手権では準決勝に進出。2004年にはU−19で優勝します。また、2003年U−17世界選手権では3試合戦い、韓国戦でハットトリックを決めるなど準優勝に貢献。2年後のWユースでは5試合で4ゴールを挙げましたが、ベスト8に終わりました。
フル代表デビューは2006年11月15日ルーマニア戦。アラゴネス監督の信頼は厚く、伸び悩むレジェスやケガの多いビセンテを差し置いて瞬く間にレギュラーに定着しました。
2007年8月の親善試合ギリシャ戦で2ゴールを挙げると、2008年欧州選手権予選には7試合先発出場。出場した試合は6勝1分と無敗を誇りました。また、予選最後の北アイルランド戦はラス・パルマスで行われ、代表のユニフォームを身にまとって故郷に錦を飾りました。本大会では5試合プレー。準決勝ロシア戦でゴールを奪い、44年ぶりの優勝に貢献しました。
2009年コンフェデ杯では3試合でノーゴールでしたが、2010年W杯予選では5試合プレーし、ホームのベルギー戦では僚友ビジャと共に2ゴールを挙げました。本大会では不本意な出来でしたが、母国初のタイトルを獲得しました。
2012年欧州選手権予選では6試合戦い、最終節スコットランド戦など4ゴール、本大会でも6試合戦ってイタリアとの決勝など2ゴールを挙げて連覇を達成しました。
2013年コンフェデ杯ではタヒチ戦で2ゴール1アシストを決めましたが、それ以外は満足な出場時間を得られず、ブラジルとの決勝もベンチで過ごしました。
2014年W杯予選は5試合に出場するもペドロほどのインパクトを残せませんでした。しかし本大会では序盤の2試合を先発するなどレギュラーとしてプレーしました。
2016年欧州選手権予選は8試合戦い、ベラルーシ戦で決勝ゴールを挙げます。本大会は4試合に出場しますが、決定機に絡めませんでした。
2018年W杯予選は9試合に出て5ゴールを挙げました。本大会では4試合にスタメン出場しますが、決定的な仕事はなく、終了後に引退しました。
代表記録

※:2006・11・15 ルーマニア戦
2008年2月25日:新規アップ 2019年9月27日更新