ロレンソ・セラ・フェレール(Lorenzo SERRA FERRER)
フルネーム ロレンソ・セラ・フェレール
国籍 スペイン
出身地 マジョルカ
生年月日 1953・3・5
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1981〜83 ポンプレンセ
1982〜85 マジョルカ・アトレティコ
1985〜93 マジョルカ
1993〜97 2004〜06 ベティス
2000〜01 バルセロナ
2006〜08 AEKアテネ(ギリシャ)
獲得タイトル 04/05コパ・デル・レイ
現役時代はアマチュアの選手として地域リーグでプレー。プロ経験はありません。

アヤックスへの留学経験があり、名将ヨハン・クライフの影響を受けています。サイドからの堅守速攻を主体とし、フォーメーションは4−3−3、4−2−3−1を使用します。
ローテーション制を採用したり、若手を試したりするなど幅広い選手起用も特徴です。

28歳の若さで監督のキャリアをスタートさせ、3部のポンプレンセに就任。82/83シーズンにチームを2部昇格に導いたことが評価され、マジョルカに招へいされます。
10シーズンに渡ってチームを支え、そのうち6シーズンを指揮。1部と2部を行ったり来たりする不安定な状況が続きますが、86/87シーズンには1部で6位になりました。
93/94シーズンから2部のベティスに就任。するといきなりチームを昇格させ、迎えた94/95シーズンは1部リーグ3位に導きUEFA杯出場権を獲得します。さらに96/97シーズンはリーグ4位となり、国内カップのファイナリストになります。2−3でバルセロナに敗れはしましたが、短期間でチームを強化した手腕は国内で称賛されました。
そしてテクニカルスタッフとしてバルセロナに入り、若手の指導にあたります。00/01シーズンにトップチームのファン・ハール監督が離れたため指揮を執ります。3−2−3−2という布陣を敷くものの、サイドの選手がひとりでハーフとバックの役割を担うため疲労しやすくなり、そこを攻め込まれるシーンが見られました。期間は短く、UEFA杯では準決勝においてリヴァプールに敗れ解任されましたが、クラブには残って再び若手育成の仕事に就きました。
2004年に7年ぶりにベティスに復帰すると、オファーが絶えないホアキンとデニウソンといった既存の主力の残留に加え、ストライカーのR・オリヴェイラを獲得。これで決定力不足が解消され、チームはリーグ4位となってクラブ初のチャンピオンズ・リーグ出場権を獲得。さらに国内カップではクラブ史上2度目の優勝をもたらすなど躍進に大きく貢献しました。
翌シーズンのチャンピオンズ・リーグではグループステージに進出。16強入りはならなかったものの、チェルシーに勝利をおさめ、リヴァプールと引き分ける試合を見せました。国内リーグでは欧州との両立に苦しんで14位と大きく順位を下げ、チームを去りました。
2006年、キャリア初の海外での指揮となるAEKアテネに就任。チャンピオンズ・リーグではミランを破るアップセットを演じました。国内ではオリンピアコスの牙城を崩せませんでしたが、翌シーズンはそのライバルからリヴァウドを獲得します。しかし彼を生かすため中盤の守備に枚数が割かれ、得意とするサイド攻撃が封印されるというジレンマに陥り、チャンピオンズ・リーグ予備予選3回戦でセビージャに敗れ、本選出場を逃しました。
その後は古巣マジョルカのフロントになっています。
2008年10月12日:新規アップ 2012年7月6日更新

00/01バルセロナ
リヴァウド クライファート
  ジェラール  
オフェルマルス シモン
デ・ラ・ペーニャ プティ
セルジ プジョール
  F・デブール  
  デュトルエル  

04/05ベティス(国内カップ優勝)
  R・オリヴェイラ  
  フェルナンド  
エドゥ ホアキン
アスンソン アルス
フェルナンデス メリ
リバス ファニート
  ドブラス  

07/08AEKアテネ
マンドゥカ リベロプーロス
  リヴァウド  
J・セザール ジコス
  ヌサリワ  
アルアバレーナ エジソン
ジェラウド デラス
  モレト