アルド・セレーナ(Aldo SERENA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | アルド・セレーナ | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | イタリア | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | モンテベルナ | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1960・6・25 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 183cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 72kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 左 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(CF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1984・12・8 ポーランド戦 |
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代表背番号 | 20 21 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 86年 90年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 88/89セリエA得点王 | ||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 81/82コッパ・イタリア | ||||||||||||||||||||||||||||
85FIFAインターコンティネンタル・カップ | |||||||||||||||||||||||||||||
85/86,88/89,91/92,92/93セリエA | |||||||||||||||||||||||||||||
90/91UEFAカップ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
77/78 モンテベルナ | 29 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
78/79 インテル | 2 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
79/80 コモ(2部) | 18 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
80/81 バーリ(2部) | 35 | 10 | |||||||||||||||||||||||||||
81/82 インテル | 21 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
82/83 ミラン(2部) | 20 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
83/84 インテル | 28 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
84/85 トリノ | 29 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
85/86 ユヴェントス | 25 | 11 | |||||||||||||||||||||||||||
86/87 ユヴェントス | 26 | 10 | |||||||||||||||||||||||||||
87/88 インテル | 22 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
88/89 インテル | 32 | 22 | |||||||||||||||||||||||||||
89/90 インテル | 30 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
90/91 インテル | 30 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
91/92 ミラン | 9 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
92/93 ミラン | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
イタリア北部の3大クラブに所属した華々しいキャリアを誇り、安定したボディバランスと抜群の跳躍によるヘディングで前線の基準点になる典型的なCFです。 モンテベルナで29試合9ゴールとまずまずの成績を残し、78/79シーズンにインテルに引き抜かれます。第8節ラツィオ戦で初ゴールを決めますが、出場機会に恵まれずコモへ移籍。DFヴィエルコウッドらと共にA昇格を果たしますが、レギュラー定着には至りませんでした。 その後レンタルされたバーリでキャリア初の2ケタゴールを達成すると、81/82シーズンにインテルに戻ってコッパ・イタリアを制しました。その後八百長事件でB降格となったミランで8ゴール、復帰したインテルで8ゴール、トリノで9ゴールとチャンスをものにしました。 この活躍でユヴェントスへ移ります。トラパットーニ監督によりエースとなり、プラティニやM・ラウドルップの援護を受けて2年連続で2ケタゴールを達成し、スクデットを手にしました。 87/88シーズンにインテルへ戻り、ユヴェントス時代に続きトラパットーニ監督に師事します。2年目はR・ディアスやブレーメ、マテウス、ベルティの加入でチーム力が上がり、ゴール数も比例して増え、22ゴールで得点王になり2度目のスクデットを獲りました。3年目はクリンスマンと2トップを組んで9ゴールを挙げ、4年目に自身初のUEFA杯を制して退団しました。 ミランでは晩年ということもあって結果が残せませんでしたが、スクデット連覇で有終の美を飾りました。その後は解説者として活躍しています。 1984年のロス五輪ではベアルツォット監督により、F・バレージ、ヴィエルコウッド、マッサーロらと共にエントリーされ6試合に出場、エジプトとの初戦でゴールを挙げました。 フル代表デビューは同年12月8日ポーランド戦となります。2年後のW杯メンバーに入りますが、ケガの影響で出場機会なしに終わりました。 1990年大会は3試合に出場し、ウルグアイ戦では30歳の誕生日を自らゴールで祝いました。その後アルゼンチンとの準決勝ではPK戦で5人目として臨むものの失敗しました。 1992年欧州選手権予選はキプロス戦で2ゴールを挙げました。 代表記録 24試合5得点 2018年1月23日:新規アップ |