沢田 謙太郎(Kentaro SAWADA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 沢田 謙太郎(サワダ ケンタロウ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 神奈川県鎌倉市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1970・5・15 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 170cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 63kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | DF(RSB) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1995・9・20 パラグアイ戦 |
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代表背番号 | 7 21 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | サワケン | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 94ジャパンフットボールリーグ新人王 | ||||||||||||||||||||||||||||
95ジャパンフットボールリーグベストイレブン | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
93 柏レイソル(JFL) 30 | 12 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
94 柏レイソル(JFL) 2 | 30 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
95 柏レイソル | 43 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
96 柏レイソル | 23 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
97 柏レイソル 2 | 30 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
98 柏レイソル 2 | 30 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
99 サンフレッチェ広島 3 | 29 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
00 サンフレッチェ広島 3 | 30 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
01 サンフレッチェ広島 3 | 24 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
02 サンフレッチェ広島 3 | 26 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
03 サンフレッチェ広島(J2) 3 | 2 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
スピードにあふれ、タイミングのよいオーバーラップや縦への突破力が持ち味の右SB。闘志あふれるプレーでチームを鼓舞します。 大阪に生まれますが、生後まもなく神奈川県鎌倉市に転居します。小学4年からサッカーを始め、藤沢西高では1年でインターハイ、3年次に国体に出場しました。 高校卒業後に中大へ進み、1年からレギュラーを任され活躍します。4年になるとキャプテンに就任し、出場した全日本大学選手権で優勝しました。 Jリーグのクラブからもオファーが届いていましたが、JFL柏に入団。ルーキーイヤーは中盤でプレーしていましたが、2年目より右SBへコンバートされると才能が開花し、レギュラーに定着して30試合に出場。Jリーグ昇格の原動力となって新人王とベストイレブンに選ばれました。 翌シーズンにプロ契約を結び、開幕のアウェー清水戦でJリーグデビューします。翌シーズンのアウェー横浜F戦で初ゴールをマークしました。 98シーズンに西野監督が就任、3バック採用によりスタメンから外れましたが、人材不足や成績不振で4バックに戻ると再び出場機会を得ます。しかしその後薩川やホン・ミョンボと優秀なCBの相次ぐ加入により3バックを実行できる目処が立ったため、戦力外通告を受けました。 99シーズンに広島へ移籍します。C大阪との開幕戦は敗れはしたもののゴールを挙げると、しばらく鳴りを潜めていたエネルギッシュなプレーが復活し、チームの躍進に貢献しました。 01シーズンは駒野が台頭してきたため、左やボランチとしてもプレーし、高い順応性を見せました。03シーズンはJ2での戦いとなり出場機会は大幅に少なくなりますが、チームの精神的支柱として存在感を発揮し、J1復帰を見届けて現役を引退しました。 その後は広島の下部組織でコーチを務め、後進の指導にあたっています。 JFL:42試合5得点 J1:235試合10得点 J2:2試合 1995年9月20日のパラグアイ戦で代表デビューし、その後3試合に出場しましたが、柳本の台頭により定着できませんでした。 代表記録 4試合 2011年12月4日:新規アップ |