ロナウド(RONALDO)
フルネーム ロナウド・ルイス・ナザリオ・デ・リマ
国籍 ブラジル
出身地 イタグアイ
生年月日 1976・9・22
身長 183cm
体重 81kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 1994・3・23
アルゼンチン戦
代表背番号 9 20
W杯メンバー 94年 98年
02年 06年
ニックネーム 怪物
個人タイトル 94/95エールディヴィジ得点王
96/97,03/04リーガ・エスパニョーラ得点王
96/97ヨーロッパ・ゴールデンブーツ
96,97,02世界年間最優秀選手(FIFA)
96,97,02世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌)
97,98U−21欧州年間最優秀選手
97,02バロンドール(フランスフットボール誌)
97/98UEFA最優秀選手
97/98UEFA最優秀FW
97/98セリエA年間最優秀選手
97/98セリエA年間最優秀外国人選手
98FIFAワールドカップ最優秀選手
99コパ・アメリカ得点王(5得点)
02FIFAワールドカップ得点王(8得点)
02FIFAインターコンティネンタル・カップ最優秀選手
02UEFAベストイレブン
チームタイトル 91U−17南米選手権
93ブラジルカップ
93レコパ・スダメリカーナ
94,02FIFAワールドカップ
95/96オランダカップ
96アトランタオリンピック銅メダル
96/97コパ・デル・レイ
96/97UEFAカップウィナーズ・カップ
97FIFAコンフェデレーションズ・カップ
97,99コパ・アメリカ
97/98UEFAカップ
02FIFAインターコンティネンタル・カップ
02/03リーガ・エスパニョーラ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
93 サン・クリストヴァン
94 クルゼイロ 14 12
94/95 PSV(オランダ) 33 30
95/96 PSV(オランダ) 13 12
96/97 バルセロナ(スペイン) 9 37 34
97/98 インテル(イタリア) 10 32 25
98/99 インテル(イタリア) 9 19 14
99/00 インテル(イタリア) 9
00/01 インテル(イタリア) 9
01/02 インテル(イタリア) 9 10
02/03 レアル・マドリー(スペイン) 11 31 23
03/04 レアル・マドリー(スペイン) 9 32 24
04/05 レアル・マドリー(スペイン) 9 34 21
05/06 レアル・マドリー(スペイン) 9 23 14
06/07 レアル・マドリー(スペイン) 9
06/07 ミラン(イタリア) 99 14
07/08 ミラン(イタリア) 99
09 コリンチャンス 9 20 12
10 コリンチャンス 9 11
11 コリンチャンス 9
ブラジルが生んだサッカー史に残るストライカー。瞬発力に長け一瞬でトップスピードになり、抜群のボールコントロールでのドリブル突破から両足で正確なシュートを放ちます。また、ルーズボールにも鋭く反応するなど、ペナルティエリア内で絶対的な強さを誇ります。

リオデジャネイロ州の中でも貧しい地区に生まれ、15歳の時に地元のクラブに入団します。サッカーを始めた当初はGKでしたがFWに転向。また、フットサルも並行していました。
U−17南米選手権での活躍によりプロのクラブから注目されクルゼイロに入団し、9月7日コリンチャンス戦でトップリーグデビュー。そして14試合12得点とすぐに結果を残しました。
1994年W杯終了後にロマーリオが在籍したPSVへ移り、8月28日フィテッセ戦でのリーグデビューを得点で飾ります。優勝こそ逃すも得点王に輝き、2年目はカップ戦を制しました。2年で55試合57得点という驚異的な記録を残し、先達に続くかのようにバルセロナへ移ります。
1996年9月1日オビエド戦でリーガデビュー。デ・ラ・ペーニャ、L・エンリケ、フィーゴ、ストイチコフなどワールドクラスが居並ぶチームに素早く順応、34得点を記録し得点王に輝きます。リーグ優勝こそR・マドリーに奪われますが、国内カップとカップウィナーズ杯の2冠を達成。ボビー・ロブソン監督に「ロナウドこそ戦術である」と言わしめる抜群の存在感を放ちました。
この活躍により約32億円の移籍金でインテルへ移籍し、1997年8月31日ブレッシャ戦でセリエAデビューを果たします。25得点と前評判通りの活躍を見せますが、27得点を挙げたウディネーゼのビアホフの前に得点王のタイトルを逃しました。UEFA杯では決勝ラツィオ戦で得点を挙げてタイトルを手中にし、UEFAから表彰されました。
翌シーズンはR・バッジョの加入により背番号9となり、世界最高レベルの2トップが結成されます。インテリスタもスクデット獲得に期待を抱いたものの、自身の故障が端を発しチームは4回も監督交代をするなど低空飛行を続け、夢の2トップは不発に終わりました。
99/00シーズンはヴィエリとの2トップも期待されましたが、リーグの11月21日レッチェ戦で右ヒザじん帯を断裂して離脱、復帰した2000年4月12日の国内カップ、ラツィオ戦で同じ箇所を完全断裂し、引退もささやかれる中で約1年半の長いリハビリ生活を送ります。その後奇跡的な復帰を果たし10試合で7点を挙げたものの、カウンターを戦術の軸とするクーペル監督の構想に合わず、守備偏重のイタリアにも嫌悪感を抱いていたためスペイン復帰を望みます。当初はバルサ復帰が濃厚でしたが、ファン・ハール監督が拒絶しました。約58億円で市場が閉まる最終日にR・マドリー移籍が決まり、インテルとは喧嘩別れのような形になりました。
かつての爆発的な走力は鳴りをひそめたものの、シュート精度やポジショニング、一瞬の飛び出し、判断力などプレースタイルが変わっても相手にとって脅威であるのは変わりませんでした。ジダン、フィーゴのチャンスメークとラウールの献身もあり、開幕アラベス戦含む5度の1試合2得点に加え、アウェーのアラベス戦でのハットトリックと通算23得点を挙げて2シーズンぶりのリーグ優勝の原動力となります。チャンピオンズ・リーグでは6得点を挙げベスト4進出に貢献。特に準々決勝ではマンチェスター・U相手にハットトリックを達成しました。12月のインターコンティネンタル杯では先制点を決めて世界一の座をクラブにもたらし、大会最優秀選手になりました。W杯の活躍もあり、この年の個人タイトルを獲得。翌03/04シーズンには20得点を挙げたJ・バティスタをかわして得点王になりました。
04/05シーズン終盤には、ホームのクラシコを皮切りに5試合連続で8点を取りましたが及ばず、チーム不調の戦犯に挙げられます。05/06シーズンは14点を取りましたが、ケガが多発し23試合の出場にとどまりました。06/07シーズンにはカペッロ監督との確執も取りざたされ、新加入のファン・ニステルローイの前に出番が限られました。
そして冬の移籍市場でミランへ移籍します。2試合目のシエナとのアウェー戦で2得点1アシストとスムーズにチームに順応しました。2年目は本拠ナポリ戦で2点を取りましたが、本拠リヴォルノ戦で途中出場した直後に左ヒザ蓋腱を断裂、現役引退もささやかれました。
09シーズンに母国コリンチャンスに移籍すると、本拠フルミネンセ戦でのハットトリック、サントスやパルメイラス相手の1試合2点など20試合で12得点、リベルタドーレスでも7試合で3点と決定力の健在ぶりを示しました。しかし古傷の影響により11シーズンで引退しています。

1991年のU−17南米選手権を制し、1994年3月23日アルゼンチン戦で弱冠17歳でフル代表デビューを飾ります。同年のW杯にメンバー入りしたものの、ロマーリオとベベトの前に出場機会はありませんでした。1996年のアトランタ五輪ではオーバーエージのベベトやリヴァウドらと共にプレーし、6試合5得点とエースとしての役割を果たします。準決勝でカヌ擁するナイジェリアに敗れはしましたが、3位決定戦に勝利して銅メダルを獲得しました。
1997年コパ・アメリカではロマーリオとの「RO−RO」コンビを結成。決勝ボリビア戦など大会通算5得点を挙げてチームを優勝に導きます。同年のコンフェデ杯でも5試合戦いチェコとの準決勝で1得点を挙げると、オーストラリアとの決勝でハットトリックを達成して優勝しました。
1998年W杯では7試合4得点3アシストをマークしますが、フランスとの決勝直前に体調不良となります。試合には強行出場しましたが、本領を発揮できず準優勝に終わりました。
1999年コパ・アメリカでは決勝ウルグアイ戦など6試合5得点で挙げ連覇に貢献します。その後の大ケガで2002年W杯予選は出場しなかったものの、本大会では決勝ドイツ戦の2得点など7試合で8得点を挙げて得点王になり、2大会ぶりの優勝に大きく貢献しました。
2006年W杯予選では、アルゼンチン相手にハットトリックを決めるなど15試合10得点と南米最多の数字を残し4回目の出場権を獲得します。本大会では5試合戦い英雄ジーコ率いる日本戦で2得点を挙げ、決勝トーナメントのガーナ戦で大会通算15得点目を決め、ゲルト・ミュラーの大会得点記録を更新しましたが、チームはベスト8止まりでした。
代表記録 97試合62得点

余談
・1996年アトランタ五輪は、ロナウド・ギアロという主力のCBがチームにおり、彼と区別するために「ロナウヂーニョ」という名前で登録されました。
2011年8月21日:新規アップ 2012年9月2日更新