リヴァウド(RIVALDO)
フルネーム リヴァウド・ヴィトール・ボルボーザ・フェレイラ
国籍 ブラジル
出身地 レシフェ
生年月日 1972・4・19
身長 186cm
体重 75kg
利き足
ポジション FW(ST)
FK PK FK
キャプテン経験  
代表デビュー 1993・12・16
メキシコ戦
代表背番号 10
W杯メンバー 98年 02年
ニックネーム  
個人タイトル 99バロンドール(フランスフットボール誌)
99世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌)
99世界年間最優秀選手(FIFA)
99コパ・アメリカ最優秀選手・得点王(5得点)
98/99リーガエスパニョーラ年間最優秀選手
99/00UEFAチャンピオンズ・リーグ得点王(10得点)
チームタイトル 94,96サンパウロ州選手権
94ブラジル全国選手権
97/98,98/99リーガ・エスパニョーラ
97/98コパ・デル・レイ
97FIFAコンフェデレーションズ・カップ
99コパ・アメリカ
02FIFAワールドカップ
02/03UEFAチャンピオンズ・リーグ
02/03コッパ・イタリア
04/05,05/06,06/07ギリシャリーグ
04/05,05/06ギリシャカップ
08,09,10ウズベキスタンリーグ
08,10ウズベキスタンカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
88 パウリスタ    
89 パウリスタ    
90 パウリスタ    
91 サンタクルス    
92 モジミリン 27
93 コリンチャンス 19 11
94 コリンチャンス 22
94 パルメイラス 29 13
95 パルメイラス 45 17
96 パルメイラス 30 23
96/97 デポルティボ(スペイン) 11 41 21
97/98 バルセロナ(スペイン) 11 34 19
98/99 バルセロナ(スペイン) 11 37 24
99/00 バルセロナ(スペイン) 11 31 12
00/01 バルセロナ(スペイン) 10 35 23
01/02 バルセロナ(スペイン) 10 20
02/03 ミラン(イタリア) 11 22
03/04 ミラン(イタリア) 11
04 クルゼイロ 11
04/05 オリンピアコス(ギリシャ) 5 23 12
05/06 オリンピアコス(ギリシャ) 10 22
06/07 オリンピアコス(ギリシャ) 10 25 17
07/08 AEKアテネ(ギリシャ) 10 29
08 ブニョドコル(ウズベキスタン) 6 12
09 ブニョドコル(ウズベキスタン) 10 30 20
10 ブニョドコル(ウズベキスタン) 10 11
11 サンパウロ 30
12 カブルスコルプ(アンゴラ) 9 21 11
13 サン・カエターノ(2部)
14 モジミリン(3部)
左足から放たれる数々の創造的なプレー、シュート、FKなどどれもが語り草となる、クラッキ(名手)の名にふさわしいブラジル代表史上屈指のファンタジスタです。

少年時代は貧しくバス代がなかったため、練習場までの長い道のりを何時間もかけて歩いて通い、16歳の時には父親が他界するなど厳しい生活が続いていましたが、苦労が報われプロのキャリアをサンタクルスでスタートさせました。
モジミリンで頭角を現し、1993年に国内の名門コリンチャンスへレンタル移籍しました。その後パルメイラスへ移籍し、R・カルロス、エヂムンド、ジーニョ、S・サンパイオらと共に1994年全国選手権、1994年、1996年サンパウロ州選手権を獲得しました。
96/97シーズンにデポルティボへ入団し、8月31日R・マドリー戦でリーガデビュー。ベベトの再来として期待され、シーズン外国人最優秀選手に選ばれました。その年は同胞のロナウドがバルセロナで活躍していた年でしたが、それをしのぐインパクトを与えました。
翌年にはロナウドと入れ替わる形でバルセロナへ移籍します。右WGにフィーゴ、CFにクライファートが入り、自身は左WGに入って世界最高級の豪華絢爛なユニットを組みます。プレー自体は満足のいくものではありませんでしたが、リーグ優勝を達成しました。チャンピオンズ・リーグではグループリーグのマンチェスター・U戦では、シュマイケルが全く動けないほどの威力あるFKを決めますが、バイエルンとも同居していたためグループリーグで敗退しました。
翌シーズンから本領を発揮してリーグ連覇に貢献しますが、99/00シーズンに左サイド起用を主張するファン・ハール監督との確執が起こります。チャンピオンズ・リーグのチェルシー戦では延長戦でPKを決めたものの、国内では4位に終わりました。
00/01シーズンはチームが不振にあえぎ、自身はバレンシア戦でバイシクル含むハットトリックを決めて何とかリーグ4位を確保しました。翌シーズンはチャンピオンズ・リーグこそ9試合6得点でしたが、国内リーグでは出番が減ってバルセロナを退団しました。
各クラブの争奪戦の末、移籍金なしでミランに移籍し、2002年8月18日のベルルスコーニ杯のユヴェントス戦にて本拠地サン・シーロでデビュー、9月14日モデナ戦でセリエAにデビューします。インザーギとシェフチェンコの2トップをサポートするトップ下、または2トップの一角としての活躍が期待されましたが、カカの入団で構想外となり多くの時間をベンチで過ごしました。
その後母国に戻りますが、満足の行く結果を残せず再び渡欧を決意し、ギリシャのオリンピアコスに移籍。チャンピオンズ・リーグではリヴァプール相手に得点を奪うなど6試合に出場、その後UEFA杯でも3試合戦って質の高い個人技を見せます。翌シーズンもチャンピオンズ・リーグで5試合2得点を決め、06/07シーズンは本拠アポロン戦でハットトリックを決めました。
07/08シーズンにライバルAEKへ。チャンピオンズ・リーグにはセビージャとの予備選で自らの得点及ばず敗れ、その後UEFA杯では6試合2得点の成績を残しました。
1年後にジーコ率いるウズベキスタンのブニョドコルへ移籍。その後旧知のフェリペにも師事し、1年目のACLでは4試合で1得点、2年目は9試合1得点でベスト16になりました。
サンパウロでは8歳下のL・ファビアーノ、20歳下のルーカス・Mにも引けを取らないプレーを披露し、アンゴラでも2試合に1回のペースで得点を挙げました。
そして22年ぶりに復帰したモジミリンにて、長きにわたるキャリアを終えています。

1993年12月16日のメキシコ戦でフル代表デビュー。アトランタ五輪ではオーバーエージ枠で5試合出場しますが「マイアミの奇跡」で失態を演じ、翌年のコンフェデ杯でもわずか2試合と精彩を欠き、非難を浴びることもありました。その影響でしばらくブランクがありましたが、1998年W杯では10番を背負い、7試合で3得点の活躍でチームを準優勝に導きました。
翌1999年のコパ・アメリカでは得点王と最優秀選手に輝き代表の中軸に座ります。2002年W杯予選では15試合8得点と背番号10の重責を果たし、本大会でもロナウド、ロナウヂーニョとの「3R」を形成、7試合5得点と大活躍して母国5度目の優勝に大きく貢献しました。
2006年W杯予選は4試合1得点に終わり、カカのレギュラー起用で構想外となりました。
代表記録 73試合33得点
2006年2月1日:新規アップ 2014年3月17日更新