フルネーム ホセ・アントニオ・レジェス・カルデロン
国籍 スペイン
出身地 ウトレラ
生年月日 1983・9・1
身長 178cm
体重 75kg
利き足
ポジション FW(LWG)
FK PK FK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 2003・9・5
ポルトガル戦
代表背番号 10 14 17
W杯メンバー 06年
ニックネーム  
個人タイトル  
チームタイトル 02U−19UEFA欧州選手権
03/04プレミアリーグ
04/05FAカップ
06/07ラ・リーガ
09/10,13/14UEFAヨーロッパリーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
99/00 セビージャB(3部) 32
99/00 セビージャ 11
00/01 セビージャ(2部) 30
01/02 セビージャ 11 29
02/03 セビージャ 11 34
03/04 セビージャ 10 21
03/04 アーセナル(イングランド) 9 13
04/05 アーセナル(イングランド) 9 30
05/06 アーセナル(イングランド) 9 26
06/07 レアル・マドリー 19 30
07/08 アトレティコ・マドリー 17 26
08/09 ベンフィカ(ポルトガル) 6 24
09/10 アトレティコ・マドリー 19 30
10/11 アトレティコ・マドリー 19 34
11/12 アトレティコ・マドリー 10 13
11/12 セビージャ 21 19
12/13 セビージャ 19 26
13/14 セビージャ 19 21
14/15 セビージャ 19 19
15/16 セビージャ 19 24
16/17 エスパニョール 9 21
17/18 コルドバ(2部) 9 17
18 新疆天山雪豹(中国2部) 37 14
18/19 エストレマドゥーラ(2部) 19
速くてリズミカルなドリブルや、繊細なタッチと絶妙なタイミングでのスルーパスが得意なWG。左がメインですが、右やSTとしてもプレーする攻撃のマルチタレントです。

セビージャの下部組織で育ち、若手選手育成に定評のあるホアキン・カパロス監督によりユースチームからBチームを飛び越え、弱冠16歳でトップデビューします。
チームが1部リーグに復帰した01/02シーズンに開幕から先発出場。2節のエスパニョール戦での初得点などエースとして8得点を挙げます。第14節バジャドリー戦で見せた得点は、自らのアイドルであるマラドーナの「伝説の5人抜き」を彷彿とさせるものでした。
10代の選手に約40億円という破格の値段がつき動向が注目されましたが、2004年1月にヴェンゲル監督に見出され、約39億円でアーセナルに移籍します。そして2月1日マンチェスター・C戦でプレミアにデビューし、13試合に出場してリーグ優勝を経験しました。
翌04/05シーズンには30試合9得点8アシスト、翌シーズンも9アシストで不振に苦しむチームで輝きを見せましたが、母国でのプレーを熱望するようになり、2006年8月31日に移籍期限の最終日にJ・バティスタとの交換トレードでR・マドリーにレンタル移籍します。
先発出場こそ多くなかったものの、試合の流れを引き寄せるスーパーサブとして活躍します。最終節マジョルカ戦では2得点を挙げて混戦のリーグを制しました。
07/08シーズンにA・マドリーへ移るものの、ポルトガル代表シモンの存在などもあり定位置確保には至らず、8年ぶりの無得点に終わりました。
そしてベンフィカへレンタルで移り、8月30日ポルト戦でリーグデビュー。26試合4得点と主軸として働いてA・マドリーに復帰します。ベンフィカで指導を受けた恩師フローレスの下で躍動、ホームのガラタサライ戦の得点などヨーロッパリーグの初代王者に輝きました。
10/11シーズンは欧州スーパー杯でインテルを下す得点を決め、バレンシア、ビジャレアル、セビージャ戦など6得点9アシストで7位になりました。翌シーズンはアグエロの退団で10番を託されるも無得点と苦しみ、セビージャに復帰します。12/13シーズンは本拠ベティス戦で2得点1アシストして5−1の大勝に貢献すると、終盤のリターンマッチでも2アシストとセビージャ・ダービーを大いに盛り上げました。2年目はリーグ戦での得点はなかったものの、本拠R・マドリー戦で先制点を演出して勝利に貢献します。ヨーロッパリーグでは、実現したセビージャ・ダービーで1得点を挙げるなど12試合に出場し、クラブ3度目の優勝を果たしました。
そして計10年過ごしたセビージャを後にし、エスパニョールへ移ります。先発定着はなりませんでしたが、2年目は4連続アシストしました。17/18シーズンに2部コルドバで1得点4アシスト。続く中国2部では14試合で4得点7アシストと格の違いを見せました。
その後母国に戻りますが、2019年6月1日に交通事故で亡くなりました。

クラブでトップデビューを果たすと同時にユース代表にデビュー。エースとして活躍し、2002年7月に開催されたU−19欧州選手権優勝の原動力となりました。
2003年9月5日ポルトガル戦でフル代表でビューを果たし、欧州選手権予選のアルメニア戦では2得点を挙げました。その後信頼を勝ち取り、ノルウェーとのプレーオフという重要な試合でも出場を果たしましたが、本大会出場はなりませんでした。
2006年W杯本大会予選でアラゴネス監督に招集され7試合出場。本大会は背番号10と期待されますが、センターハーフを重用したシステムで大会に臨んだチームでポジションを失い、グループリーグ突破が決まった後のサウジアラビア戦のみの出場となりました。
代表記録 21試合4得点

※:ホセ・アントニオ・レジェス(Jose Antonio REYES)
2006年1月9日:新規アップ 2019年9月27日更新