ロベルト・カルロス(ROBERT CARLOS)
フルネーム ロベルト・カルロス・ダ・シルヴァ
国籍 ブラジル
出身地 サンパウロ
生年月日 1973・4・10
身長 168cm
体重 70kg
利き足
ポジション DF(LSB)
FK PK FK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 1992・2・26
アメリカ戦
代表背番号
W杯メンバー 98年 02年
06年
ニックネーム 悪魔の左足
個人タイトル 01/02,02/03UEFA最優秀DF
02,03UEFAベストイレブン
02FIFAワールドカップベストイレブン
チームタイトル 93,94サンパウロ州選手権
93,94ブラジル全国選手権
96/97,00/01,02/03,06/07リーガエスパニョーラ
96アトランタオリンピック銅メダル
97,99コパ・アメリカ
97FIFAコンフェデレーションズ・カップ
97/98,99/00,01/02UEFAチャンピオンズ・リーグ
98,02FIFAインターコンティネンタル・カップ
02FIFAワールドカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
93 パルメイラス 20
94 パルメイラス 24
95 パルメイラス 23
95/96 インテル(イタリア) 6 30
96/97 レアル・マドリー(スペイン) 3 37
97/98 レアル・マドリー(スペイン) 3 35
98/99 レアル・マドリー(スペイン) 3 35
99/00 レアル・マドリー(スペイン) 3 35
00/01 レアル・マドリー(スペイン) 3 36
01/02 レアル・マドリー(スペイン) 3 31
02/03 レアル・マドリー(スペイン) 3 37
03/04 レアル・マドリー(スペイン) 3 32
04/05 レアル・マドリー(スペイン) 3 34
05/06 レアル・マドリー(スペイン) 3 35
06/07 レアル・マドリー(スペイン) 3 22
07/08 フェネルバフチェ(トルコ) 3 22
08/09 フェネルバフチェ(トルコ) 3 32
09/10 フェネルバフチェ(トルコ) 3 11
10 コリンチャンス 35
11/12 アンジ(ロシア) 3 29
丸太のような足でオーバーラップを繰り返し、速くて低いクロスを上げます。代名詞と言えるFKは、独特の長い助走から時速約120kmで弾丸のようにゴールへ飛び、これらを生み出す破壊力ある左足は「悪魔」と畏怖され攻撃面では世界最高レベルを誇る左SBです。スタミナも豊富で運動量が落ちず、ケガにも強く、アスリートとしてのトータルバランスに優れています。
陽気でムードメーカーになりますが、勝気な性格でFKも積極的に蹴りにいきます。一方幼少時に不遇な時を過ごした経験から、奉仕活動にも積極的に取り組みます。

幼少時代は裕福な家庭ではなく、父の営む農業や洋服工場で働いていました。しかし苦境にもめげず15歳でサッカー選手としてのキャリアをスタートさせます。1993年にパルメイラスとプロ契約し、才能が開花していきました。在籍時は2シーズン連続で優勝を果たしています。
3年後に欧州デビュー。ブラジルから国外への移籍では当時最高額の約9億5千万円でイタリアのインテルへ移籍しました。30試合出場と主力としてプレーしたものの、自身のプレーとチーム戦術がうまくかみ合わなかったので、わずか1シーズンの在籍にとどまりました。
96/97シーズンにR・マドリーへ。移籍金は約3億7千万円とイタリアに渡ったときの半額でした。しかしカペッロ監督によりレギュラーに定着し、同時に入団してきたイルクナー、ミヤトヴィッチ、シュケル、セードルフらとともに優勝に貢献しました。
2000年のリケルメ擁するボカとのインターコンティネンタル杯でも敗れはしましたが、左足のダイレクトボレーでチーム唯一のゴールを決め、欧州王者の意地を見せました。
リーガと欧州を2回ずつ制覇し、黄金時代の一員として不動の地位を確立します。それゆえ毎シーズンのように移籍が取りざたされる中、2005年にロビーニョの入団を考慮してスペイン国籍を取得し、EU圏内の選手となりました。06/07シーズンこそM・トーレスの台頭などで22試合の出場にとどまりましたが、4シーズンぶりの優勝を果たしました。
シーズン終了後に582試合という外国人最多出場記録を残し、11シーズン在籍したクラブに別れを告げました。その後はジーコ監督率いるフェネルバフチェで新たな挑戦をスタートさせ、チャンピオンズ・リーグでは9試合戦ってクラブ史上初のベスト8進出に貢献しました。
その後監督交代もあり出番が減少、09/10シーズン途中にコリンチャンスへ移籍し、15年ぶりに母国のピッチを踏みます。サンパウロ戦やインテルナシオナル戦で点を取るなど長年の僚友ロナウドと共に存在感を見せます。2010年W杯出場の意向を表明したものの、ドゥンガ監督からメンバーに選ばれませんでした。また、リベルタドーレスで早期敗退となり、サポーターから脅迫されたこともあってクラブとの契約を解除し、1年あまりで再び欧州に戻ります。
アンジに入って2011年3月12日クラスノダール戦でロシアリーグにデビュー。人種差別の壁に当たるも腕章を託され、やがて選手兼任コーチに就任。リーグが長丁場のためチェルシーからジルコフを獲得して負担を減らしますが、11/12シーズンを最後に引退しました。

1991年Wユースでは5試合戦い、フィーゴやルイ・コスタ擁する黄金世代のポルトガルの前に準優勝に終わりました。1992年2月26日親善試合のアメリカ戦でデビューします。
1996年アトランタ五輪では6試合に出場、日本に敗北を喫し(マイアミの奇跡)、準決勝ナイジェリア戦でオウンゴールを献上して銅メダルに終わりました。翌年はイングランド、フランス、イタリアとの4ヶ国総当たりの大会に出場。フランス相手の初戦では一度右に曲がって壁の外を超え、再び左に曲がりポストに当たってゴールという衝撃的なFKを見せました。
直後にはコパ・アメリカを制し、コンフェデ杯でも4試合戦い優勝しました。1998年W杯は全7試合出場するも優勝は逃しました。翌1999年コパ・アメリカでは連覇を達成しました。
2002年W杯予選では当時チームのリーダーだったロマーリオとの確執が取りざたされ、中盤はブランクがありましたが12試合に出場し本大会メンバーにも選ばれました。そしてグループリーグ中国戦で30mのFKを決め、シーズン直後でアジアへの長距離移動にもかかわらず持ち味を存分に発揮し、栄冠を手にしました。この年はチャンピオンズ・リーグも制していたので欧州年間最優秀選手に候補が挙がりましたが、左SBというポジションから不利な立場にあり獲得はなりませんでした。ちなみに獲得したのは僚友ロナウドでした。
2005年コンフェデ杯の出場は見送りましたが、2006年W杯予選も12試合プレーし、本大会出場を決めてメンバーに選ばれました。自身3度目となるW杯では日本戦を除く全ての試合にスタメン出場。この大会を最後に代表を引退しました。
代表記録 132試合11得点
2006年6月16日:新規アップ 2012年8月2日更新