ヴィットーリオ・ポッツォ(Vittorio POZZO)
フルネーム ヴィットーリオ・ポッツォ
国籍 イタリア
出身地 トリノ
生年月日 1886・3・2
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1912〜12 1928〜28 1929〜48 イタリア代表
1912〜22 トリノ
1924〜26 ミラン
獲得タイトル 27/30,30/35中央ヨーロッパ選手権
28アムステルダムオリンピック銅メダル
36ベルリンオリンピック金メダル
34,38FIFAワールドカップ
現役時代はスイスのグラスホッパーや、故郷のトリノでプレーしました。

W杯を連覇し、五輪でも優勝している史上唯一の存在。戦術的には「カテナチオ」からのカウンター、つまり堅守・速攻を掲げ、選手には利他的なメンタリティと結果を最重要視するという「カルチョ」のアイデンティティを作り上げたことでも後世に語り継がれる監督です。
2度のW杯を制したチームで大幅にメンバーが変わる中、メアッツァとG・フェラーリのインサイドFWでゲームを組み立てるのは共通しています。

現役を退くと、1912年よりイタリア代表を指導しストックホルム五輪に出場。ここではホスト国スウェーデンを破りましたが、オーストリアに0−5の大敗を喫します。しかし相手のヒューゴ・マイスル監督と運命の出会いを果たしました。彼やイングランド人のジミー・ホーガンと共に、第2次大戦までヨーロッパサッカーの発展に貢献することになります。そして渡英しマンチェスター・Uやダービーの試合を観戦、主力選手との接触を試みるなど多くを吸収しました。
その後1924年パリ五輪にも出場を果たします。クラブレベルでは古巣であるトリノ、さらにミランでも指揮を執りましたが、タイトルには縁がありませんでした。
1925年にオフサイドの規定が変更になると、英国では3バックが主流になりました。3年後にイタリア代表に復帰しますが、自身が率いるチームはセンターハーフを自由に動かすスタイルを採用、同年の五輪では銅メダルを獲得しました。また、現在の欧州選手権の前身にあたる中央ヨーロッパ選手権ではチームを2度の優勝に導きました。
1934年、第2回大会となったW杯では地元開催となりますが、ファシズムを掲げるムッソリーニ政権のプロパガンダに利用されることとなります。前回のファイナリストであるアルゼンチンからMFモンティ、FWグアイータ、オルシといったイタリア系移民(オリウンディ)の主力選手を引き抜いたり、レフェリーの判定へ操作を入れたりするなど多くの工作を行いました。
大会自体は当時の規定により予選ラウンドを戦いギリシャを4−0で下すと(ギリシャはわざと負けるよう賄賂を受け取っていたという説もあります)、本選にてアメリカをスキアヴィオのハットトリックなどで7−1と粉砕しました。準々決勝ではスペインと対戦、1点のビハインドを同点にしたまでは良かったのですが、相手GKが名手サモラだったこともあり延長でも決着がつきませんでした。そして自軍の選手が同点ゴールを挙げたときサモラにファールを加えたとされ、その真偽は明らかにされませんでしたが、翌日に行われた再試合にサモラの姿はなく、結局前半12分のメアッツァのゴールで勝利を収めました。準決勝では「ヴンダー・チーム」オーストリアを無失点に抑えました。決勝では先制こそ許すも、オルシと試合終了間際のスキアヴィオのゴールでチェコ・スロヴァキアを下し、初優勝を果たしました。
政治力で手にした優勝という負のイメージを払しょくすべく、11月にはイングランドとの対戦(ハイバリーの戦い)に臨みますが、相手チームに出場を辞退する選手が続出、試合でもモンティ、相手の主将ハプグッドが骨折する荒れた試合となり、試合も2−3で敗れました。
1936年のベルリン五輪では金メダルを獲得、選手も前回大会経験者は主将のメアッツァとG・フェラーリだけとなり、コラウジ、ピオラなどの台頭により世代交代が大幅に進み、センターハーフにはミシェル・アンドレオーロというウルグアイから帰化した選手を起用しました。
1938年W杯本大会では初戦でノルウェーに薄氷を踏む思いで勝利すると、続くフランスにはピオラの2ゴールなどで快勝し、ホストカントリーの夢を打ち砕きました。準決勝ブラジル戦では、相手のピメンタ監督が最終的に大会得点王になるレオニダス、ティムと主力FWを温存させる不可解な判断を下すという幸運にも恵まれ、メアッツァのPKなどで2−1で勝利しました。迎えた決勝ハンガリー戦でもピオラとコラウジがそれぞれ2点ずつ決めて4−2と快勝、史上初のW杯連覇を成し遂げました。この後W杯は第二次世界大戦が勃発した影響により、12年の中断期間に入ったのです。
1948年ロンドン五輪準々決勝を最後に62歳でイタリア代表から退きます。通算成績は64勝17分け16敗となり、97の試合数と勝利数は代表最多記録となりました。
その後ジャーナリストとして活躍し、1968年12月21日、82歳で生涯を閉じています。

余談
・自身はファシスト党支持者ではありませんでした。しかしムッソリーニ首相による試合前の敬礼の強要に従い、ファシズムに反対する観客から猛烈なバッシングを浴びている時でも、騒ぎが収まるまで腕を伸ばすよう選手に指示しています。
・1938年W杯決勝ハンガリー戦の前夜には、ムッソリーニ首相から「勝利か死か」という電報が送られてきており、結果を最重要視するスタイルの形成に多大な影響を及ぼしています。

※表示は4−3−3のワンボランチですが、実際のフォーメーションは2−3−5です。SBはMFとして、2枚の攻撃的MFはインサイドFWとしてご覧ください。
2010年6月11日:新規アップ 2012年7月9日更新

34イタリア代表(W杯優勝)
  スキアヴィオ  
オルシ グアイータ
G・フェラーリ メアッツァ
  モントリーニ  
モンティ フェラリス
ロゼッタ モンゼリオ
  コンビ  

38イタリア代表(W杯優勝)
  ピオラ  
コラウジ ビアバーティ
G・フェラーリ メアッツァ
  アンドレオーロ  
U・ロカテッリ セラトーニ
ラーヴァ モンゼリオ
  オリヴィエリ