ルーカス・ポドルスキ(Lukas PODOLSKI)
フルネーム ルーカス・ポドルスキ
国籍 ドイツ
出身地
生年月日 1985・6・14
身長 180cm
体重 81kg
利き足
ポジション FW(ST)
FK PK FK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 2004・6・6
ハンガリー戦
代表背番号 10 20
W杯メンバー 06年 10年
14年
ニックネーム ポルディ王子
個人タイトル 06FIFAワールドカップ最優秀若手選手
08UEFA欧州選手権ベストイレブン
チームタイトル 07/08ブンデスリーガ
07/08DFBカップ
13/14FAカップ
14FIFAワールドカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
02/03 1.FCケルンA(3部)
03/04 1.FCケルンA(3部)
03/04 1.FCケルン 36 19 10
04/05 1.FCケルン(2部) 10 30 24
05/06 1.FCケルン 10 30 12
06/07 バイエルン 11 22
07/08 バイエルン 11 25
08/09 バイエルン 11 24
09/10 1.FCケルン 10 27
10/11 1.FCケルン 10 32 13
11/12 1.FCケルン 10 29 18
12/13 アーセナル(イングランド) 9 33 11
13/14 アーセナル(イングランド) 9 20
14/15 アーセナル(イングランド) 9
14/15 インテル(イタリア) 11 16
15/16 ガラタサライ(トルコ) 11 30 13
16/17 ガラタサライ(トルコ) 11 26
17 ヴィッセル神戸(日本) 10 15
18 ヴィッセル神戸(日本) 10 24
19 ヴィッセル神戸(日本) 10    
左足から放たれる強力なシュートとFKが印象的なケルンのアイコン。広いビジョンからのパスや速くて鋭い突破からチャンスを生むことも多く、サイドにも適応します。

元サッカー選手の父親と元ハンドボール選手の母親の下、ポーランド南部のグリヴィツェに生まれます。2歳の時にドイツのケルンへ移住し、6歳の時に1991年にユーゲント07ベルグヘイムというクラブチームで本格的にサッカーを始めます。
1995年に地元のケルンユースへ加入。ここで成長を遂げ当時のトップチーム監督M・コーラーにより昇格し、2003年11月22日ハンブルガー戦でブンデスにデビューします。4試合目のH・ロストック戦で初得点を挙げ、19試合10得点とブンデスリーガ43年の歴史において18歳プレーヤーの最高得点記録を打ち立てますが、チームは降格しました。
しかしそのまま残り、背番号10とエースとして活躍、2度のハットトリックに1試合4得点を含む通算24得点で得点王を獲得し、チームを1年で1部に復帰させました。
05/06シーズンは12得点を挙げるものの再び降格となります。しかしこの活躍をバイエルンが見逃すはずもなく4年契約で加入します。オランダ代表マカーイとの2トップが期待されたものの、厳しいマークが続き左ヒザの軟骨を負傷して3ヶ月戦列を離れ、チームもまさかのリーグ4位に終わります。チャンピオンズ・リーグではインテル戦で終了間際に途中出場して得点を挙げますが、その後のR・マドリーやミランとの試合では不発に終わりました。
07/08シーズンはトニにクローゼと各国のエース加入でベンチを温める機会が多く、UEFA杯で11試合5得点とうっ憤を晴らしますが、その後も精彩を欠きました。
09/10シーズンに古巣ケルンへ復帰。わずか2得点と大ブレーキとなりますが、バイエルンにシャルケとシーズンの1位、2位から得点を奪いました。翌シーズンにはブレーメンやマインツから1試合2得点を挙げるなど、5年ぶりの2ケタ得点で復調を遂げます。11/12シーズンも5度の1試合2得点などランキング4位の18得点に加えアシストも7つ決めましたが、17位で降格。これに伴い約14億円の移籍金でアーセナルと4年契約を交わします。
2012年8月18日サンダーランド戦でプレミアデビュー。リヴァプール戦では先制点にカソルラへのアシストで勝利に貢献。ノースロンドン・ダービーやレディング戦、ウェストハム戦など得点を挙げるのみならず、同時加入のジルーなど味方への援護も特筆すべきで、3年連続2ケタ得点に9アシストと高い適応能力を見せました。2年目はリーグ戦こそフル稼働とはならなかったものの、FA杯ではコヴェントリー戦やリヴァプール戦で得点を決めて優勝しました。
3年目はA・サンチェスの加入で出番が減り、冬にインテルへレンタルされます。2015年1月6日ユヴェントス戦でセリエAデビューするも活躍には至りませんでした。
15/16シーズンにガラタサライへ完全移籍します。8月15日シワススポル戦でトルコリーグにデビューして得点を決めるなど2ケタを達成しました。2年目はカップ戦でハットトリックや1試合5得点を挙げるなど、計10得点をマークしました。
17シーズンに神戸へ移籍します。7月29日大宮戦でのJリーグデビューを2得点で飾りますが、その後は思ったような結果が出ず、5得点にとどまっています。

U−17とU−21を経験し、2004年6月6日ハンガリー戦にて19歳と2日でデビュー。04/05シーズン開幕前であり、2部所属選手の代表入りは1975年以来でした。
直後の欧州選手権にもエントリーされて1試合出場します。クリンスマン新監督からも引き続き召集され、12月のタイ戦で代表初を含む2得点を挙げました。
2005年、母国開催のコンフェデ杯では4試合3得点で国民へ翌年のW杯への期待を抱かせると、本大会でも強豪スウェーデンから2得点を奪うなど7試合3得点で3位に貢献。この大会より新設された最優秀若手選手賞の初代受賞者となりました。
2008年欧州選手権予選では、本拠サンマリノ戦での1試合4得点を含む9試合8得点の結果を残すと、本大会でも祖国のポーランド戦など6試合で3得点を挙げて大会優秀選手に選ばれますが、決勝でスペインに敗れトロフィーを逃しました。2010年W杯予選は9試合6得点、本大会でも6試合で2得点を挙げますが、準決勝で再びスペインの前に涙をのみました。
2012年欧州選手権予選は9試合3得点。本戦でも4試合戦い欧州史上最年少の26歳で100試合に到達したデンマーク戦で先制しますが、イタリアに敗れました。
2014年W杯予選はロイスの台頭で5試合の途中出場。本戦を前に彼が負傷で離脱するとゲッツェが入ったため精神的支柱となり、母国にトロフィーを持ち帰りました。
代表記録

※:グリヴィツェ(ポーランド)
2011年4月20日:新規アップ 2019年9月9日更新