パブロ・ガルシア(PABLO GARCIA)
フルネーム パブロ・ガブリエル・ガルシア・ペレス
国籍 ウルグアイ※
出身地 バンド
生年月日 1977・5・11
身長 186cm
体重 75kg
利き足
ポジション MF(DMF)
FK PK FK
キャプテン経験  
代表デビュー 1997・12・13
UAE戦
代表背番号 5 7 18
W杯メンバー 02年
ニックネーム  
個人タイトル  
チームタイトル  
所属クラブおよび背番号 出場 得点
96 ワンダラーズ・モンテビデオ 18
97 ワンダラーズ・モンテビデオ 17
98 ペニャロール
98/99 アトレティコ・マドリーB(スペイン2部) 16 16
99/00 アトレティコ・マドリーB(スペイン2部) 7 22
00/01 ミラン(イタリア) 55
01/02 ヴェネツィア(イタリア) 17
02/03 オサスナ(スペイン) 13 22
03/04 オサスナ(スペイン) 16 27
04/05 オサスナ(スペイン) 5 29
05/06 レアル・マドリー(スペイン) 12 22
06/07 セルタ(スペイン) 16 14
07/08 ムルシア(スペイン) 15 21
08/09 PAOK(ギリシャ) 5 18
09/10 PAOK(ギリシャ) 5 25
10/11 PAOK(ギリシャ) 5 24
11/12 PAOK(ギリシャ) 5 22
12/13 PAOK(ギリシャ) 5
13/14 PAOK(ギリシャ) 5
13/14 クサンチ(ギリシャ)
身体能力に恵まれ、ハードなタックルと厳しいマークで相手の攻撃の芽を潰す守備的MF。性格が激情型で、プレーするポジションと相重なり、カードをもらう場面が数多くあります。

19歳でワンダラーズの下部組織でプロのキャリアが始まり、3シーズンプレー。その後スペインのA・マドリーB、母国のペニャロール、再びA・マドリーとめまぐるしくチームが変わりました。
ミラン、その後ヴェネツィアとイタリアのクラブを渡り歩き、02/03シーズンにスペインのオサスナへ移籍しました。9月1日のビジャレアルとの開幕戦でようやくリーガデビューを果たすと、後半終了間際にゴールを挙げ、アウェーの試合で引き分けに持ち込みました。2年目はマドリード勢からゴールを挙げて勝利に貢献するなど欠かせない戦力となりました。
04/05シーズン、自身初のタイトル獲得のチャンスとなる国内カップ決勝ベティス戦では、相手のホアキンに対する厳しいタックルで退場処分を受け、チームも敗れました。
05/06シーズンに守備的MFを探していたR・マドリーに移籍。活躍が期待されましたが度重なる負傷や出場停止処分、システムの変更などがあって22試合の出場にとどまり、期待を裏切る格好となりました。翌シーズンにはエメルソンやM・ディアッラの加入に伴い、セルタとムルシアにレンタルに出されました。ここではいずれも多くが先発出場でした。
所属したムルシアの2部降格に伴い長年過ごしたスペインを後にします。PAOKでは2008年8月30日OFI戦でギリシャリーグにデビュー、小さいケガや3枚のレッドもあって1年目は18試合にとどまりましたが、2年目以降はコンスタントに20試合以上出場しました。また、3年目から2年連続でセルタ時代以来の欧州カップ出場を果たしました。
13/14シーズン途中に移ったクサンチで現役生活を終えました。

1997年のWユースに全7試合に出場し、決勝でアルゼンチンに敗れるもゴールを挙げています。同年のコンフェデ杯UAE戦に先発しフル代表デビュー。5試合出場してベスト4になりました。また1999年のコパ・アメリカでも3試合出場するなど代表に定着します。
2002年W杯予選ではGKカリーニやFWレコバらと共にチームを牽引。16試合出場と中盤の守備に不可欠な存在となり、チームの総失点13で本大会出場を果たします。本大会は1敗2分けでグループリーグで敗退しましたが、3試合フル出場しました。
2006年のW杯予選でも13試合と不動のレギュラーでしたが、オーストラリアとのプレーオフで敗れ、2大会連続出場を逃しています。
6試合戦った2007年コパ・アメリカは自身のPK失敗が響き準決勝で敗退。2010年W杯予選は序盤の2試合のプレーにとどまり、本大会メンバーから落選しました。
代表記録 65試合2得点

※:スペインの国籍もあり
2006年10月1日:新規アップ 2015年7月5日更新