ペレ(PELE)
フルネーム エドソン・アランテス・ド・ナシメント
国籍 ブラジル
出身地
生年月日 1940・10・23
身長 171cm
体重 73kg
利き足
ポジション FW(CF)
FK PK FK PK
キャプテン経験  
代表デビュー 1957・7・7
アルゼンチン戦
代表背番号 10
W杯メンバー 58年 62年
66年 70年
ニックネーム キング・ペレ
個人タイトル 57,58,59,60,61,62,63,64,65,69,73
サンパウロ州選手権得点王
61,63,64ブラジルカップ得点王
65コパ・リベルタドーレス得点王
73南米年間最優秀選手(エル・ムンド紙)
13FIFA名誉バロンドール
チームタイトル 58,60,61,62,64,65,67,68,69
サンパウロ州選手権
58,62,70FIFAワールドカップ
61,62,63,64,65ブラジルカップ
61,62コパ・リベルタドーレス
62,63FIFAインターコンティネンタル・カップ
77北米リーグ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
1953〜56 バウルー    
57 サントス 29 36
58 サントス 38 58
59 サントス 32 45
60 サントス 30 33
61 サントス 26 47
62 サントス 26 37
63 サントス 19 22
64 サントス 21 34
65 サントス 30 49
66 サントス 14 13
67 サントス 18 17
68 サントス 21 17
69 サントス 25 26
70 サントス 15
71 サントス 40
72 サントス 36 14
73 サントス 49 30
74 サントス 27 10
75 ニューヨーク・コスモス(アメリカ)
76 ニューヨーク・コスモス(アメリカ) 24 13
77 ニューヨーク・コスモス(アメリカ) 25 13
ドリブル、パス、シュート、創造性に加えてボディバランスにも優れており、170cm程度の身長ながら空中戦にも強く、スピードも兼備するなど攻撃面でオールラウンドなプレーを見せます。
世界で唯一3度のW杯優勝を経験するなど、比類なき実績や実力もさることながら、優れた人格者でもある「サッカーの王様」です。

ミナス・ジェライス州トレス・コラソンエスにて、フルミネンセのストライカーであるドンジーニョの子として生まれ、父親が引退後に監督を努めた地元クラブチームでサッカーを始めます。
その後、BACというクラブの入団テストに合格、自身の加入はクラブに地区のジュニアチャンピオン2連覇という形で効果を表します。しかしクラブがジュニアチームを解体したため、当時のBAC監督である元ブラジル代表バルデマル・デ・ブリート氏に勧められ、サントスの入団テストを受けたのが11歳の時でした。合格して名門クラブの下部組織にて天賦の才能を発揮すると、間もなく16歳を迎える1956年9月7日のコリンチャンス戦でゴールを決める華麗なプロデビューを果たします。そしてレギュラーに定着すると脅威的なペースでゴールを量産、国内では選手権9度の優勝、11度の得点王に輝き、2度のリベルタドーレス杯、2度のクラブ世界一と、サントス史上最高の黄金期を築きました。
ユヴェントスから白紙の小切手を用意されるなど欧州からのあまたのオファーを固辞し、サントスのためにキャリアのほとんどを捧げました。1967年にクラブがラゴスへ遠征した時は、自身のプレーを見るために戦争中のビアフラとナイジェリアが2日間休戦したこともありました。
19年間過ごしたサントスにて33歳で引退しますが、1年後に現役復帰すると北米リーグに参戦。後から加入してくるベッケンバウアーと共に、アメリカにサッカーを普及させました。キャリア最後の77シーズンにリーグ優勝を果たし、有終の美を飾りました。

1957年7月7日アルゼンチンとの代表デビュー戦でゴールを挙げ、国際試合史上最年少記録を樹立、その後3試合連続ゴールを挙げて弱冠16歳ながら瞬く間にセレソンに定着します。
翌1958年W杯メンバーに選ばれ、グループリーグ最終戦に出場、準々決勝ウェールズ戦で1ゴール、続く準決勝フランス戦ではわずか26分間でハットトリックを達成すると、決勝スウェーデン戦でもボールを浮かせてDFをかわし、ボレーで鮮やかなゴールを挙げるなど、17歳8ヶ月8日という史上最年少での優勝を果たしました。そしてこのとき偶然割り振られた背番号「10」が、やがてサッカーにとって特別な意味を持つようになったのです。
続く1962年大会はチームが優勝するもののケガで決勝に出られず、1966年大会もポルトガルとの3戦目での負傷でプレー不能となり、チームもグループリーグ敗退となりました。
しかし1970年W杯では予選で6試合6ゴールと爆発、ジャイルジーニョ、トスタン、リヴェリーノ、C・アルベルト、ジェルソンらと共にプレーします。チェコ・スロヴァキア戦でのロングロブ、イングランド戦でのヘディングにおけるバンクスのビッグセーブ、ウルグアイ戦でのボールまたぎとハイライトを次々に生みました。大会では4ゴールを挙げ、決勝イタリア戦でもC・アウベルトへアシストを送る大車輪の活躍で3度目の優勝に輝き、ブラジルにジュール・リメ杯(トロフィー)の永久保持を実現させました。

W杯通算14試合で12ゴール、生涯通算1363試合で1281ゴールを挙げています。また、1970年大会決勝のゴールはブラジルのW杯通算100ゴール目となりました。
1969年11月19日、聖地マラカナンにて1000ゴール目をPKで決め、その5年前のボタフォゴ戦では1試合8ゴールを記録。さらに1試合5ゴールが6回、4ゴールが30回、ハットトリックに至っては92回とゴールに関する多くの記録を打ち立てました。
代表記録 91試合77得点
※:トレス・コラソーエス
2010年10月10日:新規アップ 2014年1月14日更新

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