ホセ・ペケルマン(Jose PEKERMAN)
フルネーム ホセ・ネストル・ペケルマン・クリメン
国籍 アルゼンチン  
出身地 ビジャ・ドミンゲス
生年月日 1949・9・3
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1981〜82 チャカリタ・ジュニオルス・ユース
1982〜92 アルヘンティノス・ジュニオルス・ユース
1992〜94 コロコロ・ユース(チリ)
1994〜01 U−20アルゼンチン代表
2003〜03 レガネス・ディレクター(スペイン)
2004〜06 アルゼンチン代表
2007〜08 クラブ・トルーカ(メキシコ)
2009〜09 UANLティグレス(メキシコ)
2014〜   コロンビア代表
獲得タイトル 95,97,01FIFAワールドユース
97,99南米ユース選手権
12〜14南米年間最優秀監督(エル・パイース紙)
ビジャ・ドミンゲスに生まれ、12歳の時にブエノスアイレスに移ります。現役時代はアルヘンティノスでMFとして活躍し、133試合11得点の記録を残しました。
その後コロンビアのメデジンに移籍して101試合15得点の記録を残しましたが、ヒザの負傷を理由に28歳の若さで現役を引退しました。

若手の育成にかけてはアルゼンチンで右に出る者がいないほどの実績を持ち、1979年のマラドーナを擁したチーム以来、Wユース(現U−20W杯)のタイトルから遠ざかっていたアルゼンチン代表を3度も優勝に導き、多くの若手をフル代表に送り込んでいます。
好調な選手を積極的に起用するのが特徴で、自軍の選手の状態、相手チーム、試合展開に合わせたフォーメーションの変化など柔軟性あふれる采配を振るいます。前線と最終ラインの間を小さく保ち、グラウンダーのパス成功率を高めるポゼッションサッカーを標榜します。
余談ですが、飼っているペットの名前は優勝したWユースの開催地(カタール、マレーシア、アルゼンチン)です。

引退した後はブエノスアイレスでタクシードライバーとして生計を立てていた時期もありましたが、1981年に指導者キャリアを始めます。国内クラブの下部組織で10年あまり辣腕を振るった後チリに渡り、強豪コロコロの下部組織でも2年間若手の育成に携わりました。
一時代を築いたマラドーナのキャリアも終盤となった1994年、アルゼンチンの協会からユース代表を託され、元GKウーゴ・トカリと共に母国の若手育成に着手します。
翌年に開催されたWユースでは、ソリンやイバガサらをまとめます。グループリーグこそポルトガルの後塵を拝したものの、決勝トーナメントでカメルーンとスペインを下します。決勝では宿敵ブラジルをゼロに抑えて優勝し、アトランタ五輪の銀メダル獲得につなげました。この時も、教え子であるサネッティ、クレスポ、アルメイダが中心選手となっていました。
チーム数が増えた1997年Wユースでは司令塔リケルメが軸となります。アイマールやカンビアッソらが中盤を構成し、サムエル、プラセンテ、L・フランコが守備を固めます。グループリーグはオーストラリア戦で同じ選手に4点を献上して前回同様2位になりますが、決勝トーナメントではイングランドやブラジル、アイルランドに勝ち、決勝でもウルグアイに逆転勝ちしました。
その後パサレラ監督の後任としてフル代表監督への待望論も浮上しますが、これを固辞してビエルサ監督を推薦し、自らはアドバイザーに就任しました。
1999年Wユースは2大会連続出場となるカンビアッソ、G・ミリートを中心に戦いますが、ガーナとクロアチアの前にグループリーグ敗退に終わりました。
1997年からユース選手権を連覇したものの、シドニー五輪出場権をかけた大会の2次リーグでは、ブラジル戦でロナウヂーニョにハットトリックを決められて敗退しました。
2001年Wユースではコロッチーニ、ブルディッソの守備、サビオラ、ダレッサンドロ、マキシの攻撃とバランスに優れたチームとなります。サビオラのエジプト戦と準々決勝フランス戦のハットトリックなど大会新記録の11得点を挙げる活躍で自身3度目の戴冠となりました。
アルゼンチン国内のクラブからオファーが絶えませんでしたがヨーロッパ行きを選択、2003年はスペインの下部クラブ、レガネスのディレクターを約半年務めました。そしてビエルサ監督が翌年9月に辞職すると、フル代表監督に就任します。
2006年W杯予選では過去の経験を最大限に生かし、起用した全49選手の約半数にあたる22人がユース世代の教え子でした。自身は選手の能力を熟知し、選手からも全幅の信頼を置かれており戦術的もスムーズに浸透、代表チームではあまり例を見ないターンオーバーを敷くことができたのも、この関係が成り立っていたからこそであるといえます。
それまで強硬派だった代表監督とは一線を画した穏やかな性格である監督のもと、チームはホームのウルグアイ戦に臨み4−2で快勝、その後アウェーで3敗を喫したものの、ホームのブラジル戦を制するなど南米最速でW杯出場権を獲得しました。2005年コンフェデ杯では決勝に進むものの守備陣が崩壊、ブラジルに4失点して一抹の不安が残りました。
2006年W杯では、サネッティやサムエルといった経験豊富なDFをメンバーから外して物議を醸しますが、オランダ、コートジボワール、セルビア・Mとの激戦区を無敗で突破しました。決勝トーナメント初戦もメキシコを退けますが、続くホスト国ドイツ戦ではリケルメをベンチに下げた後に追いつかれ、最終的にPK戦で敗れて退任しました。
その後メキシコに渡るものの、特段良い結果を残せませんでした。2010年W杯の後にはオーストラリア代表や日本代表就任が取りざたされました。
2012年にコロンビア代表に就任。2年後のW杯予選ではアウェーのペルー戦から指揮を執り、ファルカオとT・グティエレスの2トップの活躍などにより、8勝2分2敗とアルゼンチンに次ぐ2位で予選を通過し、チームに16年ぶりの出場権をもたらしました。しかし本番を控えたクラブの試合でファルカオが負傷、予備登録まで残しますが、23人の枠からは外しました。
グループリーグはハメスの連発もありギリシャとコートジボワールに連勝します。日本戦はメンバーを落としますが、途中出場したハメスが1得点2アシストし、43歳のGKモンドラゴンをピッチに送って大会最年長出場記録を更新させるなど終始余裕の試合運びを見せました。その後ハメスの左足ボレーでウルグアイを下しますが、ホスト国ブラジル戦では2点のリードを追いつけず、終了間際にスニガがネイマールを負傷させて後味の悪い結果に終わりました。
2015年コパ・アメリカは準々決勝でアルゼンチンとスコアレスドローになり、PKで敗れました。翌年は準決勝で連覇するチリに敗れました。
2018年W杯予選はアルゼンチンに連敗するなど5敗しますが、4位で通過します。本大会では2大会連続で対戦する日本戦でC・サンチェスが開始早々にエリア内のハンドで一発退場となり、直後のPKも決められました。一度は同点にするものの、ほぼ90分を数的不利で戦わざるを得ず、ケガで途中から投入したハメスも違いを作れず黒星スタートとなりました。ポーランド戦ではハメスが2アシストして勝利しますが、セネガル戦ではハメスが負傷しました。しかしミナの決勝弾により首位でグループリーグを通過しました。イングランドとのR16はミナの3戦連続ヘッドで同点に持ち込みますが、PK戦で2人連続で失敗し、2大会連続のベスト8はなりませんでした。

2017年1月8日:新規アップ 2018年8月25日更新

95U−20アルゼンチン代表(Wユース優勝)
  ビアジーニ  
  イバガサ  
ソリン コジェッテ
ラロッサ フアン
F・ドミンゲス ペーニャ
チャパッロ G・ロンバルディ
  イリゴイティア  

97U−20アルゼンチン代表(Wユース優勝)
  ロメオ  
  リケルメ  
クベロ スカローニ
カンビアッソ セッリズエラ
プラセンテ キンターナ
サムエル クフレ
  L・フランコ  

01U−20アルゼンチン代表(Wユース優勝)
ダレッサンドロ サビオラ
  ロマニョーリ  
アルカ ポンシオ
メディーナ M・ロドリゲス
コロッチーニ コロット
  ブルディッソ  
  ルクス  

06アルゼンチン代表(W杯ベスト8)
テベス クレスポ
  L・ゴンサレス  
リケルメ M・ロドリゲス
ソリン マスチェラーノ
エインセ コロッチーニ
  アジャラ  
  アボンダンシエリ  

14コロンビア代表(W杯ベスト8)
  グティエレス  
  ハメス  
イバルボ クアドラード
C・サンチェス グアリン
アルメロ スニガ
ジェペス サパタ
  オスピナ  

18コロンビア代表(W杯ベスト16)
 ファルカオ 
 キンテーロ 
イスキエルドクアドラード
レルマC・サンチェス
モヒカアリアス
O・ムリージョD・サンチェス
 オスピナ