ダニエル・パサレラ(Daniel PASSARELLA)
フルネーム ダニエル・アルベルト・パサレラ
国籍 アルゼンチン  
出身地 ブエノスアイレス
生年月日 1953・5・25
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1989〜94 2006〜07 リーベル・プレート
1994〜98 アルゼンチン代表(ユース兼任)
1999〜01 ウルグアイ代表
2001〜02 パルマ(イタリア)
2002〜04 モンテレー(メキシコ)
2005〜05 コリンチャンス(ブラジル)
獲得タイトル 89/90アルゼンチンリーグ
91/92,93/94アルゼンチン前期リーグ
96アトランタオリンピック銀メダル
97南米年間最優秀監督(エル・パイース紙)
03メキシコ後期リーグ
選手としてはアルゼンチン代表史上最高のリベロと言われ、守備力はもちろんFKやヘディングでゴールを量産する攻撃力が脚光を浴びました。
クラブではリーベルやインテル、フィオレンティーナで活躍し、アルゼンチン代表でもキャプテンを務めるなど、中心選手としてW杯に3回出場し2回の優勝を経験しました。

現役時代同様リーダーシップを発揮し、規律を非常に重視します。たとえ実力が備わっていても、自らの意志にそぐわない選手を何の躊躇もなく構想外にする厳格な性格が有名です。
フォーメーションは3−5−2、4−4−2を採用しています。

引退すると、そのままリーベルの監督として指導者のキャリアを始めます。かつて共にプレーしたアシスタントコーチのガジェゴとの二人三脚でチームを作り、R・ディアス、アジャラ、ブルゴス、アルメイダらを擁し、3度のリーグ優勝を果たしました。
1994年からバシーレ監督の後を受けてアルゼンチン代表に就任。マラドーナへの依存から脱却するべく、サネッティ、シメオネ、オルテガ、ガジャルド、クレスポらを招集します。翌年のコンフェデ杯はグループリーグで日本から5得点を挙げます。続くナイジェリアとスコアレスドローになって得失点差で決勝に進みますが、欧州王者のデンマークに敗れました。
アトランタ五輪ではアルメイダ、オーバーエージにセンシーニを加えて守備を強め、ホストのアメリカ、ポルトガルと同居したグループを首位で通過します。その後もクレスポの爆発力でナイジェリアとの決勝に進出しますが、終了間際に失点して銀メダルにとどまりました。
世代交代を推し進める一方、1994年W杯の主力だったレドンドやバティストゥータといった長髪の選手に対して髪の毛を切ることを要求します。前者はそれを拒み、後者は指示に従って代表に招集されたことがあり、物議を醸しました。自身も現役時代は長髪をなびかせていましたが、選手が自らの指示に従うか否かを図った例として有名なエピソードとなりました。
1998年W杯予選は、16試合で50人近くの選手を招集。また、4−4−2から3−5−2へ変更するなど試行錯誤を繰り返して序盤こそ苦しみますが、最終的には8勝6分2敗と首位通過で本大会出場を果たしました。登録メンバーはセリエAで活躍する選手を中心に構成し、グループリーグは初出場の日本などに3連勝して決勝トーナメントに進出します。
イングランド戦ではオーウェンに苦しめられますが、ベッカムを退場に追い込みPK戦の末勝利します。準々決勝オランダ戦では相手選手が退場になり数的優位になったものの、10分後にオルテガが報復行為で退場になり、ベルカンプにゴールを許して敗退しました。
その後ウルグアイ代表に就任し、3バックから4バックにシステムを変更します。欧州のクラブに所属する選手招集のルールが変更され、選手の合流が試合前日になると十分な指導ができないとしてサッカー協会に一度辞意を伝えますが、撤回しました。南米予選ではエースのレコバら選手との関係は改善されず4勝3分3敗と苦しみ、10試合を終えて更迭されました。
01/02シーズン途中、3人目の監督としてパルマに就任するも1勝もできず、5試合で解任されました(中田英は2試合出場)。その後モンテレーでリーグ優勝しました。
コリンチャンスでは州選手権で2位になりますが、カップ戦やブラジル選手権で結果を出せず、1年で解任されました。その後リーベルに復帰、オルテガやイグアインなどタレントは揃っていましたが、タイトルを獲得できずに退任しました。

2017年5月14日:新規アップ

98アルゼンチン代表(W杯ベスト8)
C・ロペス バティストゥータ
ベロン オルテガ
シメオネ サネッティ
  アルメイダ  
チャモ ビバス
  アジャラ  
  ロア