フランク・オルデネビッツ(Frank ORDENEWITZ) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | フランク・オルデネビッツ | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | ドイツ | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | ドルフマルク | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1965・3・25 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 180cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 76kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 左 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | FW(CF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1987・12・12 ブラジル戦 |
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代表背番号 | |||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | オッツェ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 94Jリーグ得点王 | ||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 87/88ブンデスリーガ | ||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
83/84 ブレーメン | 5 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
84/85 ブレーメン | 9 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
85/86 ブレーメン | 24 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
86/87 ブレーメン | 30 | 8 | |||||||||||||||||||||||||||
87/88 ブレーメン | 30 | 15 | |||||||||||||||||||||||||||
88/89 ブレーメン | 27 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
89/90 ケルン | 30 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
90/91 ケルン | 31 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
91/92 ケルン | 35 | 11 | |||||||||||||||||||||||||||
92/93 ケルン | 30 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
93 ジェフ市原(日本) | 15 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
94 ジェフ市原(日本) | 40 | 30 | |||||||||||||||||||||||||||
94/95 ハンブルガーSV | 15 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
95/96 ハンブルガーSV | 6 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
96 ブランメル仙台(日本JFL) 11 | 28 | 20 | |||||||||||||||||||||||||||
97/98 オルデンブルク(4部) | 28 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
Jリーグ2代目得点王として日本サッカー史にその名を刻み、左足から放たれる地を這う力強いミドルに加え、足元も巧みなFW。愛称およびJリーグでの登録名は「オッツェ」です。 1983年にブレーメンでトップリーグデビューします。ドイツ代表フェラーや日本代表奥寺などとのレギュラー争いによりレベルアップを果たすと、5シーズン目に初の2ケタゴールを記録し、チームをリーグ優勝に導きます。89/90シーズンにケルンへ移籍。いずれも後にJリーグのクラブに所属することになるリトバルスキやU・ラーンらと共にプレー。優勝のかかった試合でゴールを挙げるものの、ゴールの前にファールを犯したことを主審に申告したことでチームが優勝を逃したシーズンがありました。この行動によりFIFAからフェアプレー賞を贈られました。 93シーズン、リトバルスキの誘いを受けて市原(現千葉)に入団し、1993年7月24日清水戦、2ndステージ開幕戦にてJリーグデビューします。3戦目の名古屋戦で2ゴールを決めJ初ゴールをマーク、その後も浦和戦やG大阪戦で2ゴールずつ挙げました。また、ナビスコ杯でも6試合で3ゴールとまずまずの活躍を見せるものの予選リーグで敗れました。 本領を発揮したとは言い難いシーズンを終え、迎えた2年目は新人の城と2トップを組み、開幕戦から2点決めたのを皮切りにゴールを量産。2ndステージ開幕戦のG大阪戦ではハットトリックをマークし、勝敗は別としてV川崎(現東京V)、横浜M(現横浜FM)、鹿島など強豪からゴールを奪う見事な活躍を見せ、鹿島のアルシンドの28ゴールをかわして得点王になりました。 94/95シーズンに母国へ復帰しハンブルガーSVに入団しますが、レギュラーを確保できず物足りない数字に終わりました。 96シーズン、仙台(ブランメル、現ベガルタ)の監督となったリトバルスキに勧誘され入団。ゴールセンスが錆びついていないことを証明しますが、J2昇格はなりませんでした。 97/98シーズンに引退しています。 Jリーグ:55試合37得点 JFL:28試合20得点 ユースレベルを経て、1987年12月12日ブラジル戦でフル代表デビューしましたが、定着には至りませんでした。 代表記録 2試合 2008年5月15日:新規アップ 2012年2月25日更新 |