イヴィチャ・オシム(Ivica OSIM)
フルネーム イヴァン・オシム
国籍 ボスニア・H※
出身地 サラエボ
生年月日 1941・5・6
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1978〜86 ゼレツニカール(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)
1986〜92 ユーゴスラヴィア代表
1991〜92 パルチザン(ユーゴスラヴィア)
1992〜94 パナシナイコス(ギリシャ)
1994〜02 シュトゥルム・グラーツ(オーストリア)
2003〜06 ジェフ千葉(日本)
2006〜07 日本代表
獲得タイトル 91/92ユーゴスラヴィアカップ
92/93,93/94ギリシャカップ
95/96,96/97,98/99オーストリアカップ
97/98,98/99オーストリアリーグ
03,05Jリーグ監督特別賞
05ナビスコカップ
現役時代はFWとしてプレーし、1964年東京五輪でユーゴスラヴィア代表として来日します。4年後は欧州選手権では1966年W杯優勝のイングランド相手に勝利しましたが、決勝でイタリアに敗れました。1978年にフランスのストラスブールで現役を引退しました。

タイトル争いとは無縁だった千葉をJリーグ屈指の強豪に仕立て上げた世界でも指折りの名将です。「走る」「危険なサッカー」をモットーに攻撃的な姿勢で千葉に改革をもたらしました。また、インタビュー時の独特の言い回しも特徴です。

引退してすぐに監督としての道を歩み始めます。母国のクラブを歴任した後1986年にユーゴスラヴィア代表に就任します。チームは国内の政情により著しく編成が変わり、ストイコヴィッチ、サヴィチェヴィッチ、プロシネツキなどスター選手がそろうチームになったのです。
1990年のW杯に出場。国内メディアは攻撃過多のメンバー構成を求めます。自身はそれが攻守のバランスが悪くなると最初からわかっていましたが、あえてそのメンバーで初戦のドイツ戦に臨み、4−0で敗れたのです。そして周囲を沈黙させると、続くコロンビアとUAEとの試合で本領を発揮して連勝し、決勝トーナメントへコマを進めました。1回戦はストイコヴィッチの2得点でスペインに勝ちました。2回戦のマラドーナ率いるアルゼンチン戦では退場者を出しながらも120分間守り抜きましたが、PK戦で敗れベスト8になりました。しかし大会全体が守備的だったこともあり、スペクタクルなユーゴスラヴィアのサッカーは各方面から称賛されたのです。
その後ユーゴスラヴィアの国勢が悪化し、1992年欧州選手権の予選を突破したにもかかわらず政治的制裁を受けた関係で、FIFA、UEFAから国際試合の出場停止処分を言い渡され、欧州選手権の出場権を剥奪されました。そして抗議の態度を示すべく辞任を表明しました。
ギリシャでオリンピアコスを2年連続でカップ制覇に導いた後、S・グラーツに就任します。中位にいたクラブに厳格な規律と戦術を植え付け、2年目にカップ、4年目にリーグ優勝と結果を残しました。また、98/99から00/01まで3シーズン連続でチャンピオンズ・リーグに出場。3度目の1次リーグでは、ガラタサライ、レンジャーズ、モナコといった常連と同居しながら1位通過を果たします。2次リーグではバレンシアやマンチェスター・Uのチーム力に屈しました。
2003年にJリーグ市原(現千葉)の監督に就任。レギュラーを固定せず積極的に若手を登用して選手層を充実させ、1年目から1stステージ3位、2ndステージ2位と優勝圏内にチームを押し上げます。チェ・ヨンス、中西永、村井、茶野といった実力者を大量に放出する大胆な改革を施し、阿部、巻、山岸智、羽生ら若手の能力を引き出し、戦術を植え付けました。
2005年にはグラーツ時代の教え子ハースが加入。リーグでは最終節まで優勝争いを展開しましたが4位に終わります。しかしカップでの浦和との準決勝、巻が第一戦で、阿部が第ニ戦で2点ずつ挙げると、決勝でもG大阪をPK戦の末破り、チームに初タイトルをもたらしました。
2006年5月15日に巻が2006年W杯日本代表メンバーに選出されましたが、訪れるマスコミに対して落選した阿部の心情を考慮するように提言し、懐の広い一面を垣間見せました。

W杯終了後、千葉との契約期間中でしたがコーチの息子アマルに託し、2006年7月21日に日本代表に就任。大幅な世代交代に踏み切り、川口、駒野、アレックス、坪井、W杯から外れた長谷部など初陣の招集は13人にとどまりました。待望論の多かった闘莉王、重用する鈴木啓といったアテネ五輪世代に加え、播戸や中村憲、千葉時代の羽生や山岸智を初招集します。さらに中村俊、高原、巻、遠藤、加地、中澤、阿部とジーコ政権での選手を復帰させます。
2007年アジア杯は闘莉王の離脱により阿部をCBに据えます。本大会では準決勝でサウジアラビアに敗れ、3位決定戦も韓国にPK負けを喫して3連覇を逃しました。
その後欧州遠征で2006年W杯ベスト16のスイス相手に勝利するなど、2010年W杯予選への手ごたえをつかんだところでしたが、2007年11月に急性脳こうそくにより緊急入院しました。体調面が懸念されたため、退任しています。
※オーストリア国籍もあり
2006年5月26日:新規アップ 2012年7月6日更新


90ユーゴスラヴィア代表(W杯ベスト8)
 ヴヨヴィッチ 
スシッチストイコヴィッチ
ブルノヴィッチヴリッチ
ヨジッチプロシネツキ
サバナジョビチスパシッチ
 ハジベギッチ 
 イヴコヴィッチ 

00/01シュトゥルム・グラーツ(CL2次リーグ進出)
コチヤンユーラン
 ラインマイヤー 
ミナヴァンドショップ
フレウルキンシュップ
ノイヒルキナープリラスニヒ
 ポポヴィッチ 
 シドルチュク 

05ジェフ千葉(ナビスコ杯優勝)
ハース巻誠一郎
 羽生直剛 
坂本将貴山岸智(水野)
阿部勇樹佐藤勇人
斎藤大輔水本裕貴
 ストヤノフ 
 立石智紀 

07日本代表(アジア杯ベスト4)
高原直泰 巻誠一郎
遠藤保仁中村俊輔
鈴木啓太中村憲剛
駒野友一加地亮
阿部勇樹中澤佑二
 川口能活