奥野 誠一郎(Seiichiro OKUNO) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 奥野 誠一郎(オクノ セイイチロウ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 福井県丸岡町 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1974・7・26 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 181cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 75kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | DF(CB) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | |||||||||||||||||||||||||||||
代表背番号 | |||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 93天皇杯 | ||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
93 横浜フリューゲルス | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
94 横浜フリューゲルス | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
95 横浜フリューゲルス | 16 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
96 横浜フリューゲルス | 0 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
97 横浜フリューゲルス 17 | 6 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
98 横浜フリューゲルス 17 | 3 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
98 大宮アルディージャ(JFL) | 10 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
99 大宮アルディージャ(J2) 2 | 27 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
00 大宮アルディージャ(J2) 2 | 34 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
01 大宮アルディージャ(J2) 2 | 39 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
02 大宮アルディージャ(J2) 2 | 40 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
03 大宮アルディージャ(J2) 2 | 37 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
04 大宮アルディージャ(J2) 2 | 44 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
05 大宮アルディージャ 2 | 27 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
06 大宮アルディージャ 2 | 11 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
07 大宮アルディージャ 2 | 6 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
鋭い読みでの的確なカバーリングと空中戦、コーチングやラインコントロールといった統率力も兼ね備えた大宮守備陣のリーダーです。 丸岡町立平章小学1年でサッカーを始めます。野球との間で迷ったものの、サッカークラブのコーチを務める父親を持つ友達の誘いが大きなきっかけとなりました。地元は雪が多かったため、冬はグラウンドではなく体育館で練習しました。 バスケや野球もこなしますが、高学年になるとサッカーに専念します。親の協力もあり恵まれた環境で少年時代を過ごします。6年時は全国大会県予選でベスト8となりました。 当時はMFとしてプレーしていましたが、県立丸岡高2年になる前にFWに転向。取り立てて有名な学校ではなかったため、当時はプロ選手になることは考えていませんでした。 しかし横浜Fからオファーを受けてプロ入りを決意します。ここでDFにコンバートされますが、岩井や薩川、大嶽の前に出場機会がありませんでした。1995年7月15日名古屋戦でJデビューして16試合プレーするもレギュラー陣の壁は厚く、クラブも経済難で消滅しました。 これに伴い大宮へ移籍します。フェルベーク監督から影響を受けて成長、99シーズンにJ2へ参戦したクラブの中心となり、01シーズンからコンビを組むトニーニョとの堅守はクラブの象徴となりました。そして04シーズンに自己最高の成績を残し、J1昇格を成し遂げます。 初のJ1では7連敗を喫しますが、主将としてチームを残留に導きます。しかし土屋、レアンドロ、冨田の台頭などで出番を減らし、07シーズンを最後に引退しました。 その後はクラブに残り、下部で後進の育成に携わっています。 2015年1月2日:新規アップ |