大久保 嘉人(Yoshito OKUBO)
フルネーム 大久保 嘉人(オオクボ ヨシト)
国籍 日本  
出身地 福岡県京都郡
生年月日 1982・6・9
身長 170cm
体重 73kg
利き足
ポジション FW(ST)
FK PK PK
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 2003・5・31
韓国戦
代表背番号 9 13 16
W杯メンバー 10年 14年
ニックネーム ヨシト
個人タイトル 03アジア年間最優秀ユース選手(AFC)
13〜15Jリーグ得点王
13〜15Jリーグベストイレブン
15日本年間最優秀選手
チームタイトル 08/09ブンデスリーガ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
01 セレッソ大阪 15 20
02 セレッソ大阪(J2) 15 29 18
03 セレッソ大阪 10 24 16
04 セレッソ大阪 10 22 15
04/05 マジョルカ(スペイン) 17 13
05/06 マジョルカ(スペイン) 17 26
06 セレッソ大阪 36 21
07 ヴィッセル神戸 13 31 14
08 ヴィッセル神戸 13 31 11
08/09 ヴォルフスブルク(ドイツ) 8
09 ヴィッセル神戸 50 19
10 ヴィッセル神戸 13 17
11 ヴィッセル神戸 13 30
12 ヴィッセル神戸 10 26
13 川崎フロンターレ 13 33 27
14 川崎フロンターレ 13 32 18
15 川崎フロンターレ 13 32 23
16 川崎フロンターレ 13 33 15
17 FC東京 13 28
18 川崎フロンターレ 4 12
18 ジュビロ磐田 22 17
19 ジュビロ磐田 22    
一瞬のスピードと卓越したテクニック、強烈なシュートやタイミングを心得たヘッドでネットを揺らす点取り屋です。アシスト能力やスタミナも兼ね備え、攻守にオールラウンドにプレーできるのも強みですが、激昂しやすいのが難点です。

小学1年のとき、南原スポーツ少年団でサッカーを始めた当初はストッパーでしたが、6年でFWにコンバートされます。国見中では2、3年次で、全国大会でベスト8に進出しました。
国見高に進み、2年でレギュラーを獲得します。3年時にはMF松橋章、2年のDF徳永らとともに国体とインターハイに加え、高校選手権では8ゴールで得点王に輝いてチームを優勝に導き、3冠獲得に大きく貢献。福岡の強化指定選手として練習にも参加しました。
この活躍で複数のJクラブが獲得に動いてC大阪に入団が決まり、2001年3月17日浦和戦でJリーグにデビューします。5試合目の磐田戦で初スタメン初ゴールを挙げますが、この試合で一発退場になりました。その後ケガで残りの試合を棒に振り、2ndステージで復帰を遂げるもののJ2降格となります。しかしこの苦境の中高い潜在能力を発揮させ、得点王争い2位の18ゴールをマークしてチームの1年でのJ1復帰に大きな役割を果たしたのです。
03シーズンには久保竜と並ぶ日本人最多の16ゴールを挙げ、アジアサッカー連盟による最優秀若手選手に選出されました。翌シーズンは9月19日市原(現千葉)戦でプロ初のハットトリックを達成するなど好調をキープしてクラブをJ1残留に導きました。
これを置き土産にスペインのマジョルカへ移籍。クーペル監督により2005年1月9日デポルティボ戦のリーガデビュー戦で1ゴール1アシストします。ケガでレギュラー定着はなりませんでしたが、終盤に復帰してA・ビルバオとデポルティボ戦で連発して勝利に貢献しました。
06シーズンにC大阪に復帰するも降格となり、移籍金3億6000万円で神戸に活躍の場を求めます。首脳陣と対立した三浦淳に代わってキャプテンマークを巻き、MFとしてのプレーを余儀なくされながらも3度の1試合2ゴールなど14ゴールと結果を残しました。
08シーズン終了後にヴォルフスブルクへ移籍し、1月31日ケルン戦でブンデスリーガにデビュー。しかしグラフィッチとジェコの前に出番に恵まれず、ノーゴールに終わりました。
その後神戸に復帰しますが、中盤での幅広い動きを求められたこともあって4年間で1度も2ケタゴールを達成できず、チームも12シーズンは16位に終わり降格しました。
13シーズンに川崎Fへ移籍します。7度の1試合2ゴールに終盤の7試合連続ゴール、2年目も大宮相手のハットトリック、3年目も名古屋相手のハットトリックなど3年連続でJリーグ得点王に輝きました。4年目も15ゴールを挙げるなど風間監督や中村憲に生かされましたが、天皇杯では決勝で鹿島に敗れ、チームでのタイトルは獲れませんでした。
17シーズンにFC東京へ移籍します。仙台戦と清水戦で1試合2ゴールを挙げますが、ゴール数は最終的に2ケタを割り込みました。
そして1年で川崎Fに復帰しますが、中断期間中に磐田へ移籍しています。

U−19以降各年代の代表を経験し、2002年アジア大会は全試合に出場して準優勝となります。2003年5月31日韓国戦でフル代表デビューし、コンフェデ杯に3試合出場しました。12月には東アジア選手権で3試合戦いますが、韓国戦で15分と18分にカードを受けました。
2004年2月、合宿中の不祥事でジーコ監督の構想外となってU−23チームに合流。3月のUAE戦で2ゴールを挙げて五輪出場を果たします。イタリア、ガーナ、パラグアイとのグループリーグで敗退しましたが、3試合で2ゴールと結果を残しました。
2010年W杯予選は9試合で2ゴールにとどまります。それでも前線からのハードワークが岡田監督の戦術に不可欠となり、本大会でも4試合に先発して16強になりました。
Jリーグでの活躍もあり、予選で出場がなかった2014年W杯のメンバーに滑り込みます。前回と違い攻撃力を求められましたが、結果がついてきませんでした。
代表記録

2017年1月14日:新規アップ 2018年12月20日更新