岡田 武史(Takeshi OKADA)
フルネーム 岡田 武史(オカダ タケシ)
国籍 日本
出身地 大阪府大阪市
生年月日 1956・8・25
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
経歴 1990〜90 古河電工
1995〜97 日本代表コーチ
1997〜98 2007〜10 日本代表
1999〜01 コンサドーレ札幌
2003〜06 横浜F・マリノス
2012〜13 杭州緑城(中国)
獲得タイトル 03,04ファーストステージ
03セカンドステージ
03,04Jリーグ
03,04Jリーグ最優秀監督賞
10アジア年間最優秀監督賞(AFC)
大阪府大阪市生まれ。選手時代は眼鏡をかけながらもハードなプレースタイルで肉弾戦もいとわず、一方で冷静に戦況を把握できる頭脳も持つDFです。
高校時代はユース代表に選ばれ、早大へ進学するとユニバーシアード代表にも選ばれます。その後古河電工(後の市原、現千葉)サッカー部へ入部。85シーズンには優勝に貢献して日本リーグのベストイレブンに選ばれ、翌1986年のアジアクラブ選手権を制しました。
日本代表としては27試合に出場。1982年11月25日アジア大会韓国戦で代表唯一のゴールを決めています(1984年5月31日のジャパン杯中国戦でも決めた記述も)。

日本でただ一人、2度のW杯で采配を振るった日本人監督です。「岡ちゃん」の愛称で親しまれ(一次政権当時)、知名度や周囲に対する影響力は多大なものがあります。
布陣は3バック(3−5−2)、4バック(4−2−3−1)ともに採用。DF出身だけに守備重視で、ゾーンディフェンスからショートパスをつなぎ、攻守の切り替えを早める展開を志向します。
卓越した独自のサッカー理論を持ち、英語やイタリア語なども駆使します。また、闘争心を植付ける指導や若手の発掘にも定評があります。

1990年に現役を引退し、古河電工からJリーグ開幕後の市原下部組織の監督から指導者としてのキャリアが始まりました。1992年にはドイツへコーチ留学を経験、1994年に加茂周氏が日本代表監督に就任すると、コーチとしてスタッフに入りました。
1997年10月4日の1998年W杯予選カザフスタン戦後、成績不振による加茂監督の現地での更迭に伴い監督に昇格します。初采配でウズベキスタンと引き分けた後、加茂監督が多用した3バックをやめて4バックを採用しますが、続くUAE戦も勝ちきれませんでした。しかしその後の韓国戦とカザフスタン戦は会心の勝利をおさめます。最終ラインを高く押し上げてフィールドをコンパクトに使い、プレスを掛けて攻撃を展開する積極的なプレーが奏効したのです。
そして1997年11月16日、イランとのW杯アジア第3代表決定戦では中山のゴールで先制しますが、逆転されます。その後カズを思い切ってベンチに下げると、交代で入った城がゴールを挙げて同点に持ち込み、采配が的中しました。そして延長後半に途中出場した岡野がVゴールを決めて、W杯初出場の偉業を成し遂げました(ジョホールバルの歓喜)。
1998年6月、スイス合宿でのW杯本大会メンバー登録の発表で、エースだったカズや北澤、当時の日本代表史上最年少でフル代表の召集を受けた市川を外し、物議を醸しました。
本大会ではアルゼンチンやクロアチアといった強豪と同じグループに組み込まれ、4バックから3バックに戻す守備的な布陣で臨みました(実質的には両SBの名良橋と相馬もひいていたので5バックのようなものでした)。初戦はバティストゥータに数少ない決定機を決められ敗戦、2戦目のクロアチアはボクシッチやボバンを欠いていましたが、それでもシュケルに決定力を見せられました。ジャマイカ戦では中山が日本人としてW杯初ゴールを挙げ、18歳の小野も途中出場して実力の片りんを見せるも及びませんでした。エースとしての活躍が期待された城が精彩を欠いたこともあり、3戦全敗でグループリーグ敗退となりました。
その後契約延長の打診を断り辞任します。守備的な戦いに終始したと非難が相次ぎましたが、予選途中の就任により本大会への準備期間が短く、攻撃面で決して突出していない日本代表で指揮を執るに当たり、守備を優先させたことはやむなきことだったのかもしれません。
1999年にJ2降格直後の札幌に就任。元代表DF名塚を獲得し、吉原が15ゴールを挙げますが、5位に終わりました。2年目は新加入のFWエメルソンが31ゴール、播戸が15ゴールを挙げる破壊力でJ1に戻りました。01シーズンは新エースのウィルが得点王となり、山瀬功や今野といった有望な若手を起用してJ1残留に成功。翌年のW杯では解説者を務めました。
2003年より横浜FMに就任します。FW久保、DFユ・サンチョルとバランスの取れた補強を行い、当時2ステージ制だったJ1の両ステージを制して就任1年目にして完全優勝を果たしました。さらに2004年の1stステージでも優勝し、Jリーグ史上初の3ステージ連続優勝になりました。2ndステージは6位に終わりましたが、チャンピオンシップでPK戦の末に2ndステージ覇者浦和を下し、2年連続の年間優勝を達成しました。2005年はチャンピオンズ・リーグやA3チャンピオンズ杯を戦い、リーグ戦では過密日程の影響を受けて精彩を欠きました。
06シーズンの開幕当初は4連勝と好スタートをきりましたが、勝ちきれない試合が続きます。そして大宮に敗れて2連敗を喫した翌日に辞任を表明しました。
その後は協会のスタッフや解説者を務めますが、翌年11月に代表のオシム監督が急性脳こうそくで辞職したため経験の豊富な自身に白羽の矢が立ち、9年ぶりに代表復帰します。当初はオシム監督の連動性を重視したサッカーを踏襲しますが、最終予選以外で19年ぶりの敗戦となった3次予選バーレーン戦後に方向転換します。GKを川口から楢崎に、中村憲、阿部、山瀬功の中盤を中村俊、長谷部、松井に代えます。中村俊は直後のオマーン戦でゴールを決め、以降は遠藤や玉田、大久保と共に攻撃の軸となります。最終予選もバーレーン相手に中村俊が両試合でゴールを決めるなど存在感を放ち、アウェーのウズベキスタン戦で出場権を獲得します。しかしこの試合で退席し、続くカタール戦を引き分け、オーストラリアに敗れました。
本田圭、内田、長友、岡崎と後の代表の中核を担う面々を代表デビューさせ、海外遠征でオランダやガーナと戦いましたが、以降は強豪とのマッチメークが実現できませんでした。2010年の東アジア選手権は韓国に敗れるなど3位に終わり、若手中心のセルビア相手に0−3と惨敗、Jリーグ得点王の前田や成長著しい香川を本大会メンバーから外した選考も議論の的となり解任騒動に発展、自ら進退伺を出すほど逆風が吹いていました。
その後も韓国相手に0−2で敗れ、再びチームに手を加えます。イングランドやコートジボワールといった本戦直前の強化試合で楢崎、内田、岡崎、中村俊といったレギュラーを外し、キャプテンも長谷部に変更しました。そしてシステムも4−2−3−1から4−3−3に変更し、アンカーに阿部、両サイドに突破力のある松井、攻守にハードワークができる大久保、最前線にフィジカルと技術を兼ね備えた本田圭を未経験ながら1トップに抜擢します。これが奏功し、初戦では彼が挙げた先制点を守り抜きました。オランダ戦ではスナイデルの一発に屈しますが、デンマーク戦は本田圭と遠藤のFKに岡崎でダメを押し、グループリーグを突破しました。パラグアイ戦では決め手を欠いてPK負けを喫しましたが、国外のW杯で初のベスト16になりました。
その後再び協会や解説者で働き、2012年に中国リーグ杭州緑城に就任します。1年目は11位となり、FW大黒を呼んだ2年目も12位に終わり、契約を1年残して辞任しています。
2013年1月7日:新規アップ 2013年12月28日更新

97日本代表(11月16日イラン戦)
カズ(城) 中山雅史
  北澤豪(岡野)  
名波浩 中田英寿
  山口素弘  
相馬直樹 名良橋晃
井原正巳 秋田豊
  川口能活  

98日本代表(W杯出場)
城彰二 中山雅史
  中田英寿  
相馬直樹 名良橋晃
名波浩 山口素弘
秋田豊 中西永輔
  井原正巳  
  川口能活  

00コンサドーレ札幌 (J2優勝)
エメルソン 播戸竜二
  アウミール  
伊藤優津樹 田渕龍二
野々村義和 ビジュ
大森健作 森秀昭
  名塚善寛  
  佐藤洋平  

03横浜F・マリノス(J1優勝)
久保竜彦 マルキーニョス
奥大介 佐藤由紀彦
那須大亮 遠藤彰弘
ドゥトラ ユ・サンチョル
松田直樹 中澤佑二
  榎本達也  

04横浜F・マリノス (J1連覇)
坂田大輔 アンジョンファン
  奥大介  
ドゥトラ 田中隼磨
上野良治 遠藤彰弘
那須大亮 中澤佑二
  松田直樹  
  榎本達也  

10日本代表(W杯ベスト16)
  本田圭佑  
大久保嘉人 松井大輔
遠藤保仁 長谷部誠
  阿部勇樹  
長友佑都 駒野友一
闘莉王 中澤佑二
  川島永嗣