小城 得達(Aritatsu OGI) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 小城 得達(オギ アリタツ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 広島県広島市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1942・12・10 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 177cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 73kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(OMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | PK | ||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1963・8・8 マレーシア戦 |
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代表背番号 | 9 10 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | 65,70日本年間最優秀選手 | ||||||||||||||||||||||||||||
66,67,68,69,70,71,72日本サッカーリーグベストイレブン | |||||||||||||||||||||||||||||
66日本サッカーリーグ得点王(14得点) | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 65,66,67,68,70日本サッカーリーグ | ||||||||||||||||||||||||||||
65,67,69天皇杯 | |||||||||||||||||||||||||||||
68メキシコオリンピック銅メダル | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
65 東洋工業(JSL) | 14 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
66 東洋工業(JSL) | 14 | 14 | |||||||||||||||||||||||||||
67 東洋工業(JSL) | 12 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
68 東洋工業(JSL) | 14 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
69 東洋工業(JSL) | 13 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
70 東洋工業(JSL) | 14 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
71 東洋工業(JSL) | 14 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
72 東洋工業(JSL1部) | 14 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
73 東洋工業(JSL1部) | 18 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
74 東洋工業(JSL1部) | 9 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
75 東洋工業(JSL1部) | 18 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
76 東洋工業(JSL1部) | 9 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
優れた戦術眼を持ち、元来は長短のパスを操る司令塔ですが、得点力や守備力もあり、長身でしなやかな体躯から点で合わせるヘッドや強烈なロングシュートでゴールを狙い、最終ラインで激しく当たるなどユーティリティ性が傑出しています。PKの成功率が高いことでも有名です。 広島県生まれ。西日本では比較的盛んだった土地柄、小学時代よりボールを蹴ってはいましたが、中学では野球に打ち込んでいました。高校には野球部がなかったためサッカー部に入部して、本格的に始めます。すぐに非凡な才能が認知されて1年からレギュラーになり、国体予選ではCF、高校選手権予選ではサイドでプレー。高校選手権にも出場し決勝進出を果たしますが、山城に敗れました。3年次ではベスト8止まりでしたが優秀選手に選ばれました。 その後中大に進学します。2年から左サイドハーフのレギュラーに抜擢され、関東大学リーグ、全日本選手権、学生王座決定戦、天皇杯の四冠獲得に大きく貢献しました。 大学卒業後の1965年に東洋工業(現広島)に入社。同年、日本サッカーリーグが開幕しました。攻守の切り替えの速さで日本リーグをリードしていたチームで、桑田隆幸、松本育夫、桑原楽之、二村忠雄など代表にも名を連ねる選手と共に攻撃の中軸を担い、リーグ優勝を達成。最優秀選手にも選ばれました。翌シーズンは14ゴールを挙げ得点王になりました。その後もリーグ連覇や天皇杯獲得など、強豪東洋工業の一時代を築き上げました。その後無冠のシーズンが続きますが、70シーズンに2度目の最優秀選手に選ばれました。 76シーズンいっぱいで現役を退いた後も、東洋工業の監督を務めるなどさまざまな方面で活躍。2006年に殿堂入りを果たしています。 JSL 163試合57得点 高校3年の時に岡野俊一郎監督率いるユース代表に選ばれ、アジアユース大会に出場しました。そして1963年8月8日、ムルデカ大会にて途中出場しフル代表デビューを果たしました。 翌年10月14日、東京五輪のアルゼンチン戦でゴールを挙げるなど4試合戦いベスト8進出を果たします。2年後のタイでのアジア大会でも2ゴールを決めて銅メダルを獲得しました。 メキシコ五輪予選では3試合連続ゴールを挙げて活躍し出場権を手にしました。本大会では森孝慈、鎌田光夫らと共に6試合守りに徹し、銅メダルを手にしました。 W杯予選は合計8試合戦いましたが、いずれも予選敗退となりました。 代表記録 62試合11得点 2007年3月18日:新規アップ 2012年2月25日更新 |