ノ・ジョンユン(Jung-Yoon NOH) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 盧廷潤(ノ・ジョンユン) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 韓国 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 仁川 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1971・3・28 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 171cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 68kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(OMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | FK | ||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1990・9・6 オーストラリア戦 |
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代表背番号 | 6 8 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 94年 98年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 86U−17アジア選手権 | ||||||||||||||||||||||||||||
90ダイナスティカップ | |||||||||||||||||||||||||||||
94ファーストステージ | |||||||||||||||||||||||||||||
04韓国カップ | |||||||||||||||||||||||||||||
05Kリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
93 サンフレッチェ広島(日本) | 28 | 6 | |||||||||||||||||||||||||||
94 サンフレッチェ広島(日本) | 36 | 10 | |||||||||||||||||||||||||||
95 サンフレッチェ広島(日本) | 38 | 13 | |||||||||||||||||||||||||||
96 サンフレッチェ広島(日本) | 24 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
97 サンフレッチェ広島(日本) 14 | 12 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
97/98 NAC(オランダ) | 9 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
98/99 NAC(オランダ) 7 | 16 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
99 セレッソ大阪(日本) 10 | 27 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
00 セレッソ大阪(日本) 10 | 25 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
01 セレッソ大阪(日本) 10 | 12 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
01 アビスパ福岡(日本) 40 | 13 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
02 アビスパ福岡(日本J2) 10 | 33 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
03 釜山アイコンズ | 27 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
04 釜山アイコンズ | 20 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
05 蔚山現代 9 | 20 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
06 蔚山現代 9 | 8 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
高い身体能力に優れたテクニック、強烈なキック、スピードに乗った精力的な縦への突破が魅力のアタッカー。韓国人Jリーガーの先駆者で、登録名は「ノ・ジュンユン」です。 1971年、仁川生まれ。小学5年でサッカーを始め、富平高から高麗大へ進みます。卒業後にKリーグドラフトで指名されるものの、以前からスカウトされた広島に入団します。ジーコ、リネカー、リトバルスキらワールドクラスの存在も、Jでのプレーを決意させる一因となりました。 自身は韓国国内で人気だっただけに想像を絶する批判を浴びましたが、それを発奮材料にプレーで沈静化させるべく日本での奮闘が始まります。1993年5月16日市原(現千葉)との開幕戦でJデビューし、6月23日横浜M(現横浜FM)戦で2ゴールを挙げました。 通訳がつかなかったので日常生活に悩んだ時期もありましたが、高木、風間、ハシェックらとともに攻撃の中核を担い、94シーズンの1stステージ制覇に貢献しました。その後タイトルからは離れますが、95シーズンから2年連続で天皇杯のファイナリストとなりました。 NACではアメリカ代表E・スチュワートやグルジア代表A・アルヴェラーゼがいましたが、本領を発揮できずC大阪に加入。右サイドでプレーし、森島寛や西澤、ユン・ジョンファンらと共に攻撃を牽引し、00シーズン1stステージで2位と躍進しました。その後クラブから契約を解除され蔚山現代に入団しようとしたものの、ドラフトを経なかったことが問題視され断念しました。 窮地を迎えていたところ、福岡からオファーがきます。呂比須、山下芳など代表クラスのFW陣をバックアップしますが年間15位に終わって降格となります。クラブへの恩義を感じて残留しJ2で戦いましたが、8位に終わってJ1復帰はなりませんでした。 その後Kリーグの規定が解除になったため、プロ生活10年目にしてようやく母国でのプレーを果たしました。06シーズン限りで現役を引退しています。 J1:215試合43得点 J2:33試合5得点 U−16より代表に招集され、同アジア選手権はサウジアラビアやカタールを破って優勝。1987年のU−17世界選手権はアメリカ戦でゴールを奪うなど準々決勝に進出しました。バルセロナ五輪ではパラグアイやスウェーデン、モロッコと戦いました。 1990年9月6日オーストラリア戦にて韓国史上最年少でフル代表デビューし、5月5日の日韓定期戦で決勝ゴールを挙げました。その後のW杯は若年もあり見送られました。 1994年W杯予選では6試合に出ましたが、本大会ではスペインとドイツの前にグループリーグで終わりました。4年後の同大会は1試合にとどまりました。 2000年は、北米のゴールド杯に2試合、アジア杯は6試合に出場しました。 代表記録 45試合5得点 2014年7月7日:新規アップ 2017年6月18日更新 |