ネイマール(NEYMAR)
フルネーム ネイマール・ダ・シウヴァ・サントス・ジュニオール
国籍 ブラジル
出身地
生年月日 1992・2・5
身長 174cm
体重 64kg
利き足
ポジション FW(ST)
FK PK FK PK
キャプテン経験 代表
代表デビュー 2010・8・10
アメリカ戦
代表背番号 10 11
W杯メンバー 14年 18年
ニックネーム  
個人タイトル 09サンパウロ州選手権最優秀若手選手
10〜12サンパウロ州選手権最優秀FW
10〜12サンパウロ州選手権最優秀選手
10〜12ブラジル全国選手権最優秀FW
10〜12ブラジル全国選手権ベストイレブン
10ブラジルカップ得点王(11得点)
11ブラジル全国選手権最優秀選手(プラカール誌)
11ボーラ・ジ・オーロ(プラカール誌)
11コパ・リベルタドーレス最優秀選手
11世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌)
11,12南米年間最優秀選手(エル・パイース紙)
11南米ユース選手権最優秀選手
11南米ユース選手権得点王(9得点)
11FIFAプスカシュ賞
12サンパウロ州選手権得点王
12コパ・リベルタドーレス得点王(8得点)
12レコパ・スダメリカーナ最優秀選手
13FIFAコンフェデレーションズ・カップ最優秀選手
15FIFA/FIFProベストイレブン
チームタイトル 10〜12サンパウロ州選手権
10ブラジルカップ
11コパ・リベルタドーレス
11南米ユース選手権
12ロンドンオリンピック銀メダル
12レコパ・スダメリカーナ
13FIFAコンフェデレーションズ・カップ
14/15,15/16リーガ・エスパニョーラ
14/15〜16/17コパ・デル・レイ
14/15UEFAチャンピオンズ・リーグ
15FIFAクラブワールドカップ
16リオデジャネイロオリンピック金メダル
17/18,18/19リーグアン
17/18フランスカップ
17/18フランスリーグ・カップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
09 サントス 33 10
10 サントス 31 17
11 サントス 21 12
12 サントス 17 14
13 サントス 11
13/14 バルセロナ(スペイン) 11 26
14/15 バルセロナ(スペイン) 11 33 22
15/16 バルセロナ(スペイン) 11 34 24
16/17 バルセロナ(スペイン) 11 30 13
17/18 パリ・サンジェルマン(フランス) 10 20 19
18/19 パリ・サンジェルマン(フランス) 10 17 15
19/20 パリ・サンジェルマン(フランス) 10    
両足を巧みに操る高度な技術に裏付けされたドリブルと高い決定力により、サントスの先達ペレやロビーニョと比較される、2010年代におけるブラジルのエースです。
とはいえそのプレースタイルは往年のガリンシャに似ていると父親は語り、自らがアイドルとしている選手はロマーリオです(背番号11は彼へのリスペクトです)。
頻繁に髪型を変えるなど、外見にも強いこだわりを持っています。

2003年にサントスの下部組織に入り、6年後の3月7日オエステ戦にて17歳でトップデビュー。一週間後のモジミリン戦で初得点を決め、州選手権準決勝の4月11日パルメイラス戦でも決勝点を取り、瞬く間に重要な役割を果たします。その後もナウティコとコリチーヴァ相手への1試合2得点など初年度から2ケタ得点をマークします。カップ戦でもグアラニとのラウンド16での1試合5得点など11得点を挙げて得点王に輝き、チームに栄光をもたらしました。
2年目もリーグ戦で4度の1試合2得点や2度の4試合連続得点に加え、ゴイアスとのアウェー戦でハットトリック、カップ戦でグアラニ相手の1試合5得点含む11得点を決めるなど、一時帰国のロビーニョと共にチームをけん引します。リベルタドーレスでも12試合に出場して決勝ペニャロール戦での先制点など5点を取って優勝しますが、ホームのコロコロ戦では得点後のパフォーマンスでお面をかぶり、2枚目のイエローで退場となりました。また、8月にはPKのキッカーをめぐりドリヴァル・ジュニオール監督と口論となり彼の解任騒動に発展しました。さらに9月12日のセアラ戦でも相手選手と衝突するなど、精神面で課題を残しました。
3年目もパラナエンセ戦でのハットトリックや、プスカシュ賞に輝いたフラメンゴ戦など、仙台に在籍したボルジェスの26得点に次ぐ12得点をマーク。クラブW杯柏戦では左足ミドルを決めますが、後に加入するバルサに4失点しました。リベルタドーレスでも12試合に出場してインテルナシオナウ戦でハットトリックを決め、ボリヴァル戦では2得点3アシストで8−0の大勝、コリンチャンスとの決勝2ndレグでも点を取りますが、合計スコアで敗れました。4年目もボタフォゴやサンパウロ、クルゼイロ相手のハットトリックなど怒涛のごとくネットを揺らしました。
2014年W杯が終わるまでサントスから出ないことを表明していましたが、南米ですべてをやりつくし、13/14シーズンにバルサと5年契約を結びます。8月18日レバンテ戦でリーガにデビューし、クラシコで先制点を挙げました。チャンピオンズ・リーグでもセルティック戦のハットトリックやA・マドリーとの準々決勝1stレグでの同点弾で印象を残しました。
2年目も国内リーグのグラナダ戦でハットトリックを決め、国内カップも7得点、チャンピオンズ・リーグでもPSGとの準々決勝1stレグから決勝ユヴェントス戦まで7得点と勝負強さを発揮し、メッシ、新加入スアレスとの「MSN」で3冠達成の原動力となりました。3年目はR・バジェカーノ戦での4得点や、アウェーのクラシコでの1得点1アシスト、バルセロナダービーでの1得点1アシストなど好調をキープ。国内カップでも4得点でダブルを達成しました。
4年目はクラシコでスアレスの先制点をアシストし、ラス・パルマス戦でハットトリックを決めます。チャンピオンズ・リーグでもセルティック戦で1得点4アシストすると、R16PSG戦では2ndレグで2得点1アシストして4点のビハインドを跳ね返しました。
17/18シーズンにPSGへ。8月13日ギャンガン戦のリーグデビュー戦や川島が守るメッツ戦で1得点1アシスト、トゥールーズ戦、レンヌ戦で2得点2アシスト、ディジョン戦で4得点2アシストするなど20試合19得点13アシストと巨額の移籍金に応え、PKを争ったカバーニ、同時加入のムバッペとの国内最強の3トップでタイトルを独占しました。チャンピオンズ・リーグでもセルティックやバイエルン戦など6得点3アシストしますが、16強にとどまりました。
2年目も開幕から4連発するなど15得点7アシストして連覇しますが、負傷で3ヶ月離脱しました。チャンピオンズ・リーグはレッドスター戦でハットトリックしています。

2009年のU−17W杯では3試合に出場。宇佐美擁する日本との初戦では得点を奪いましたが、メキシコとスイスの前にグループリーグ敗退となりました。
2010年W杯メンバーに推す声もありましたが(ドゥンガ監督宛ての請願書には1万4千人以上の署名が集まりました)最終的に外れ、後に就任したメネーゼス監督によりフル代表に招集されます。そして8月10日アメリカとのデビュー戦で得点を決めました。
2011年南米ユース選手権はパラグアイ戦の4点、決勝ウルグアイ戦の2点など9得点で得点王になり優勝。コパ・アメリカでも4試合戦いエクアドル戦で2点を挙げました。
2012年ロンドン五輪でも6試合戦い、フッキやオスカル、L・ダミアンなどとの攻撃で決勝に進みますが、メキシコの前に祈願の金メダル獲得はなりませんでした。
フル代表では秋に日本戦で2得点を決め、栄光の10番をまとう2013年コンフェデ杯でも相対します。そして豪快ミドルで勢いを呼び込み、メキシコ、イタリアに連発し、決勝でもフレッヂと共にスペインを粉砕して優勝の立役者となり、MVPに輝きました。
2014年W杯ではオウンゴールで先制を許した後、左足ミドルとPKで逆転すると、カメルーン戦でも先制と勝ち越し点をマーク。さらにチリとのPK戦では5番手のキッカーとして失敗が許されない中冷静に決めました。しかしコロンビアとの準決勝では終了間際にDFスニガのヒザが腰に入り、ピッチに倒れて退場。腰椎を骨折して離脱が決まり、優勝を目指す開催国のエースとして壮絶なプレッシャーの中で役割を果たした大会を不本意な形で終えました。
主将として臨んだ2015年コパ・アメリカではペルー戦で1得点1アシストしますが、コロンビア戦の終了間際にレッドを受け、チームも敗れました。
2016年リオ五輪はオーバーエージで出て主将に就任。コロンビア戦でFK、ホンジュラス戦では開始早々に得点を挙げます。決勝ドイツ戦ではFKを決め、PK戦では相手が外したのを見て5人目のキッカーとして成功させ、母国に初の金メダルをもたらしました。
2018年W杯予選は14試合でアルゼンチン戦など6得点8アシスト。本戦も5試合で2得点1アシストしますが、コスタリカ戦などでの振る舞いが議論を呼びました。
代表記録

※モジ・ダス・クルーゼス
2013年6月16日:新規アップ 2019年10月12日更新