中田 浩二(Koji NAKATA)
フルネーム 中田 浩二(ナカタ コウジ)
国籍 日本  
出身地 滋賀県大津市
生年月日 1979・7・9
身長 182cm
体重 74kg
利き足
ポジション MF(DMF)
FK PK  
キャプテン経験 クラブ
代表デビュー 20002・2・5
メキシコ戦
代表背番号 6 16
W杯メンバー 02年 06年
ニックネーム コウジ
個人タイトル 00ナビスコカップ最優秀選手
01Jリーグベストイレブン
チームタイトル 98,00,01セカンドステージ
98,00,01,08,09Jリーグ
00,02ナビスコカップ
01,10天皇杯
04AFCアジアカップ
06/07スイスカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
98 鹿島アントラーズ 26
99 鹿島アントラーズ 26 17
00 鹿島アントラーズ 5 29
01 鹿島アントラーズ 5 25
02 鹿島アントラーズ 5 29
03 鹿島アントラーズ 5 18
04 鹿島アントラーズ 5 21
04/05 マルセイユ(フランス) 27
05/06 マルセイユ(フランス) 27
05/06 バーゼル(スイス) 6 10
06/07 バーゼル(スイス) 6 34
07/08 バーゼル(スイス) 6 18
08 鹿島アントラーズ 6
09 鹿島アントラーズ 6 22
10 鹿島アントラーズ 6 32
11 鹿島アントラーズ 6 26
12 鹿島アントラーズ 6
13 鹿島アントラーズ 6 25
14 鹿島アントラーズ 6
安定した守備と的確な状況判断、正確なキックで攻撃の起点となり、メインの守備的MFに加えCBやSBでも起用されます。セットプレーでのヘッドでチームの得点源にもなります。

銀行員である父親の仕事の都合で転居が多く、沖縄から横浜に移った小学2年からサッカーを始めます。3年で鳥取に移り、小学時代と中学時代に全国大会を経験しました。
高校は強豪の帝京に進み、FWから守備的MFに転向して頭角を現します。3年でキャプテンに就任して高校選手権に初出場、準々決勝ではMF羽生擁する八千代を、準決勝では藤枝東を破るなど4得点を挙げました。MF本山などタレントを複数抱える東福岡と雪中で争った決勝戦では、前半に先制点のアシストを決めるものの逆転負けを喫し、準優勝に終わりました。インターハイでも準優勝と、タイトルにあと一歩手が届きませんでした。
卒業後に本山、小笠原、曽ヶ端らと共に鹿島に入団し、1998年4月4日京都戦でJデビュー。3年目にT・セレーゾ監督によりレギュラーに定着します。そして国内3冠を達成し、翌年もチーム2位の8得点でリーグ連覇に貢献してベストイレブンに選出されました。2003年8月30日大分戦で左ヒザのじん帯を損傷しますが、翌年の序盤に復帰しました。
シーズン終了後にトルシエ監督のオファーを受けてマルセイユへ。所属する鹿島との契約満了に伴う移籍金なしでの加入や、代表の活動期間中の練習参加、契約交渉のための離脱と正式に決まるまでの経過は異例でしたが、2005年3月6日サンテティエンヌ戦でリーグアンデビューします。しかしこの名門でのチャンスはごくわずかなものとなりました。
05/06シーズンにバーゼルへ移籍。2年目は自己最多の34試合に出てラキティッチなど攻撃陣を支え、国内カップを制しました。3年目も18試合に出て優勝の道筋を付けました。
復帰した鹿島ではG大阪戦で、3年目は仙台戦で決勝点を挙げ、岩政、伊野波、内田をけん引、リーグ連覇と天皇杯制覇を成しました。ACLでも3年で14試合3得点を挙げました。
引退後はクラブスタッフや解説者として活動しています。

1999年Wユースで7試合戦い、高原、稲本、小野らと共に準優勝になりました。2000年2月5日にフル代表デビューし、その後U−23としてシドニー五輪で3試合に出ました。
その後は森岡隆、松田と形成する「フラット3」の左で不動の存在となり、12月20日韓国戦から5試合に出た2001年コンフェデ杯、2002年W杯本大会R16トルコ戦まで25試合に連続出場しました。しかしその試合で相手の決勝点につながるミスを献上しました。
ジーコ監督の下ではコンフェデ杯で2大会計4試合に出場。2004年アジア杯では4試合戦い、バーレーン戦で先制、中国との決勝で勝ち越し点を挙げて日本の連覇に貢献しました。
2006年W杯予選は3試合でしたが、本大会に選ばれブラジル戦でプレーしました。
代表記録 57試合2得点

2017年12月29日:新規アップ