中田 英寿(Hidetoshi NAKATA)
フルネーム 中田 英寿(ナカタ ヒデトシ)
国籍 日本  
出身地 山梨県甲府市
生年月日 1977・1・22
身長 175cm
体重 72kg
利き足
ポジション MF(OMF)
FK PK FK PK
キャプテン経験 クラブ 代表
代表デビュー 1997・5・21
韓国戦
代表背番号 7 8
W杯メンバー 98年 02年
06年
ニックネーム ヒデ
個人タイトル 97日本年間最優秀選手
97Jリーグベストイレブン
97,98アジア年間最優秀選手(AFC)
97〜99アジアベストイレブン(AFC)
チームタイトル 95/96アジアカップウィナーズ・カップ
00/01セリエA
01/02コッパ・イタリア
所属クラブおよび背番号 出場 得点
95 ベルマーレ平塚 26
96 ベルマーレ平塚 26
97 ベルマーレ平塚 7 21
98 ベルマーレ平塚 7 11
98/99 ペルージャ(イタリア) 7 32 10
99/00 ペルージャ(イタリア) 7 15
99/00 ローマ(イタリア) 8 15
00/01 ローマ(イタリア) 8 15
01/02 パルマ(イタリア) 10 24
02/03 パルマ(イタリア) 10 31
03/04 パルマ(イタリア) 7 12
03/04 ボローニャ(イタリア) 16 17
04/05 フィオレンティーナ(イタリア) 10 20
05/06 ボルトン(イングランド) 16 21
当たり負けないボディバランス、広い視野からの鋭く正確なパス、力強いミドルを持つ司令塔。卓越したインテリジェンスによるオフ・ザ・ボールや豊富な運動量でセントラルMFにもなります。
先鋭的な意識ゆえの激しいコーチングが緊張した空気を生むこともありますが、1990年代から世紀をまたいで日本サッカーのレベルを高めたのも事実です。

9歳の頃からサッカーを始め、名門韮崎に入学します。2年時に高校選手権に出場、2得点1アシストの活躍で守山北に勝利しますが、2回戦で前橋育英に敗れました。
高校卒業時にJリーグ12チーム中11チームからオファーされる中、チームの自由な雰囲気が決め手となり平塚(現湘南)に入団し、1995年3月25日市原(現千葉)戦にてJデビューします。1年目から好成績を残し、3年目の1997年にはリーグのベストイレブン、史上最年少でのAFC最優秀選手選出、フル代表デビューと大きく飛躍を遂げました。
1998年W杯での活躍により、イタリアのペルージャに約4億2千万円で移籍し、日本人ではカズに次ぐ2人目のセリエAプレーヤーとなります。迎えた9月13日ユヴェントスとの開幕戦でデビューを果たすと、前年のリーグ覇者から2得点を奪ってイタリア中に衝撃を与えました。
その後も不動の司令塔としてクロアチア代表ラパイッチと共に攻撃をけん引し、シーズン通算10得点を挙げて昇格組のペルージャをA残留に導きました。
この活躍により99/00シーズン途中にローマへ約24億円で移籍しますが、同じポジションにトッティというクラブの象徴がいたため、ボランチでのプレーを余儀なくされます。翌シーズンも出場機会に恵まれませんでしたが、2001年5月4日に突如外国人枠が撤廃された直後の第29節ユヴェントス戦で後半にトッティと交代で途中出場、1得点1アシストで0−2のビハインドを引き分けに持ち来むなどクラブ18年ぶり、日本人初のスクデットを獲得しました。
しかし出場機会を求めてパルマへ移籍します。ローマでの活躍に移籍金が30億円超に跳ね上がり、背番号10が与えられますが、フランス代表ミクーとのポジション争いもあり24試合にとどまりました。チームはブッフォンとテュラムが去ったこともあり低迷して監督交代が相次ぎ10位に終わりましたが、国内カップを制しました。また、チャンピオンズ・リーグ予備選3回戦ではハリルホジッチ監督率いるリールに2戦合計1−2で敗れ、本戦出場はなりませんでした。
2年目はアドリアーノ、ムトゥとの攻撃の中でも献身的なプレーでUEFA杯出場権を獲得したものの、右サイドで起用するプランデッリ監督と、トップ下でのプレーを希望する自身との間で意見の相違が生まれ、出番が減少しました。03/04シーズンの途中にペルージャ時代の恩師マッツォーネ率いるボローニャへレンタル移籍し、シニョーリらと共にA残留に成功しました。
04/05シーズンにフィオレンティーナへ移籍しますが、体調不良により低調なパフォーマンスに終始し、クラブのアイドルであるアントニョーニ、R・バッジョ、ルイ・コスタが代々まとった10番に見合った活躍ができなかったこともあり、ティフォージから激しい非難を浴びました。
そしてプランデッリ監督就任に伴いボルトンへレンタルされ、2005年9月18日マンチェスター・C戦でプレミアデビューします。ナイジェリア代表オコチャとの共存が注目を集めますが思うような出場機会を得られず、ブラックバーン戦ではキャリア初の退場処分を受けました。

U−16アジアユースを制すると、地元での1993年U−17世界選手権では3試合に出場。財前宣という司令塔の存在もあり前線で3試合プレーします。グループリーグ3戦目のメキシコ戦で船越の得点を演出するドリブルを見せると、準々決勝ナイジェリア戦では自らも得点をマークします。試合には敗れましたが、初出場にしてベスト8に進出しました。
1994年アジアユースでは韓国に勝利するなど決勝に進出。これにより出場権を獲得した1995年Wユースでは4試合戦ってスペイン戦で得点を決め、ベスト8になりました。
西野監督によりアトランタ五輪予選に招集されます。初戦で前園が出場停止となりトップ下の重責を担います。これを無難にこなして以降全4試合に出場、2戦目のオマーン戦で得点を決めるなど28年ぶりの本大会出場に貢献しました。迎えた本大会でも前園と共に2試合トップ下を務め「マイアミの奇跡」に立ちあいますが、グループリーグで敗退しました。
1997年5月21日韓国戦でのフル代表デビュー以降、チームの中心となります。翌年のW杯予選にも全試合に出場、「ジョホールバルの歓喜」となったイラン戦では全得点に絡む活躍で、日本のW杯初出場に多大な役割を果たしました。染髪して3試合戦った本戦は全敗でしたが、そのプレーは多くの海外クラブの注目を集め、イタリアへの移籍につながりました。
2000年シドニー五輪予選では2試合プレーし、アウェーのカザフスタン戦で先制点を挙げてチームに勢いをもたらします。本大会にはローマでのポジション争いが不利になることを承知で出場、スロヴァキア戦で得点を挙げるなどグループリーグ突破に貢献するものの、PK戦にもつれた準々決勝アメリカ戦でただ一人失敗するというまさかの結果に終わりました。
2001年コンフェデ杯では4試合に出場。雨中のオーストラリア戦で地を這うFKを決めますが、スクデットを争うチームに合流するため、決勝を待たずにイタリアに去りました。
2002年W杯でも全4試合に出場。チュニジア戦で大会初にして唯一の得点をヘディングで記録するなど、日本初のベスト16進出に貢献しました。
その後はクラブでの不調から代表から遠ざかり、2006年W杯予選では5試合の出場にとどまります。しかし2005年コンフェデ杯で3試合戦って感覚を取り戻しました。
翌年のW杯では、クロアチア戦で引き分けながらマン・オブ・ザ・マッチに選ばれます。しかし3戦目のブラジル戦で実力の差を見せられグループリーグで敗退、試合終了後ピッチに倒れ込んでしばらく起き上がれず、その顔には涙が浮かんで見えました。
そして翌7月に29歳にして現役引退を表明し、日本国中に衝撃を与えました。その後は国内外で様々な活動を展開、その中でチャリティマッチやW杯でのゲスト解説、大会のドロワー、選手との対談などでサッカーに関わっています。
代表記録 78試合11得点

2016年6月14日:新規アップ