中西 永輔(Eisuke NAKANISHI) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 中西 永輔(ナカニシ エイスケ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ![]() |
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出身地 | 三重県鈴鹿市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1973・6・23 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 174cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 76kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | DF(CB) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | クラブ | ||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 1997・9・7 ウズベキスタン戦 |
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代表背番号 | 2 5 12 19 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | 98年 | ||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | |||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 04ファーストステージ | ||||||||||||||||||||||||||||
04Jリーグ | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
93 ジェフ市原 | 32 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
94 ジェフ市原 | 22 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
95 ジェフ市原 | 31 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
96 ジェフ市原 | 20 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
97 ジェフ市原 2 | 18 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
98 ジェフ市原 2 | 22 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
99 ジェフ市原 2 | 26 | 9 | |||||||||||||||||||||||||||
00 ジェフ市原 2 | 27 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
01 ジェフ市原 2 | 29 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
02 ジェフ市原 2 | 24 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
03 ジェフ市原 2 | 22 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
04 横浜Fマリノス 2 | 20 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
05 横浜Fマリノス 2 | 13 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
06 横浜Fマリノス 2 | 3 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
跳躍力、ダッシュ力、スピード、フィジカルなど運動能力が突出しています。本来DFですが、MFやFWとしてもプレーできる日本でも屈指のユーティリティプレーヤーです。バック宙も人気の一因となっており、Jリーグ初期を彩った選手の一人です。 小学1年でサッカーを始めます。中学へ進むと小倉隆史と出会い、県の選抜チームに入りました。高校は強豪四日市中央工に進み、その中で左MFのレギュラーを獲得。FW小倉、MF中田一三と共に「四中工三羽ガラス」と呼ばれ、2年と3年で選手権やインターハイといった大会に出場しました。3年での選手権は松波、阿部敏擁する帝京との同時優勝になりました。 大学進学も視野に入れていましたが、全日空(後の横浜F)、古河電工(後の市原、現千葉)、日産(現横浜FM)から誘われ、高校の先輩である越後や阪倉の存在もあり市原を選びます。 1992年のナビスコ杯浦和戦でプロデビュー。翌年Jリーグが開幕し、高卒ルーキーながら左SBのレギュラーとなって5月16日アウェーの広島戦でJデビュー。11月10日アウェーの清水戦でJ初ゴールを挙げました。しかしその後はチームの調子が上がらず、自身もポジションを固定できず伸び悩みましたが、当時の岡田武史コーチによって再び輝きを取り戻します。 チームは毎年のように残留争いに巻き込まれることになり、自身も再びその都度ポジションを替えざるを得ない状況でした。99年はキャプテンに就任し、このシーズンではFWとしてもプレーする機会があって自身最多の9ゴールをマークしています。 01シーズンは残留争いから抜け出します。自身はSBやストッパーとして安定感のある守備を披露し、年間順位3位とチームの躍進に貢献しました。その後2003年に就任したオシム監督の彼の意向によりキャプテンマークを若手の阿部勇に譲ります。両ステージで優勝争いに絡むチームでレギュラーとしてプレーしていましたが、その年のオフに解雇されました。 そして岡田監督率いる横浜FMに移籍します。ケガや出場停止、若手の台頭などで出場機会が限られた中で堅実なプレーを披露してリーグを制し、自身初タイトルを獲得しました。最後となるチャンピオンシップ浦和戦では、守備的MFとして2試合にスタメン出場して相手のエースFWエメルソンを封じ込め、チームの2年連続年間優勝に貢献しました。 2005年7月9日アウェーの名古屋戦にて、史上10人目となるJリーグ通算300試合出場を果たしています。 1996年アトランタ五輪の出場は逃しましたが、翌年9月7日の98年W杯予選ウズベキスタン戦で、名良橋と交代してフル代表デビューを果たしました。 1998年W杯予選は3試合に出場。右SBやCB、守備的MFと利便性で日本初のW杯本大会のメンバーに入り、グループリーグのアルゼンチン戦とクロアチア戦で先発フル出場。アルゼンチンのC・ロペスやクロアチアのシュケルといった世界のFWと互角の勝負を演じました。 その後就任したトルシエ監督のチームでは定着できませんでしたが、ジーコ監督就任後2試合目のアルゼンチン戦で先発フル出場し、久々の代表復帰となりました。 代表記録 14試合 2006年10月9日:新規アップ 2013年5月4日更新 |