中村 直志(Naoshi NAKAMURA) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 中村 直志(ナカムラ ナオシ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 千葉県 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1979・1・27 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 175cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 70kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 右 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(CMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | FK | ||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2006・8・9 T・トバゴ戦 |
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代表背番号 | 18 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | ナオシ | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | 10Jリーグ | ||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
01 名古屋グランパス 25 | 11 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
02 名古屋グランパス 14 | 29 | 4 | |||||||||||||||||||||||||||
03 名古屋グランパス 7 | 22 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
04 名古屋グランパス 7 | 29 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
05 名古屋グランパス 7 | 34 | 7 | |||||||||||||||||||||||||||
06 名古屋グランパス 7 | 33 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
07 名古屋グランパス 7 | 26 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
08 名古屋グランパス 7 | 31 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
09 名古屋グランパス 7 | 30 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
10 名古屋グランパス 7 | 27 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
11 名古屋グランパス 7 | 27 | 3 | |||||||||||||||||||||||||||
12 名古屋グランパス 7 | 5 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
13 名古屋グランパス 7 | 20 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
14 名古屋グランパス 7 | 18 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
適応力や戦術理解力に優れ、中盤の全ポジションで機能。切れ味鋭いドリブルからチャンスを演出し、自らもタイミング良く裏へ飛び出してゴールを狙う攻撃性の強い選手です。 そのプレーとは裏腹に、普段はおとなしい性格です。 兄の影響で小学3年からサッカーを始め、当初はFWとしてプレーしていました。小学5年で船橋FCという選抜チームのメンバーに入って県大会で優勝し、全国大会に出場しました。 中学入学時に古河電工(現千葉)の下部組織が設立されました。入団テストに合格し、中学生活と並行して練習に励み、中学3年時に全日本ジュニアユースで準優勝を果たしました。しかし身体が小さくプレーの安定性に欠けるという理由で、ユースへの昇格は見送られました。 一時はサッカーをやめることを考えますが、市立船橋のセレクションに合格して入学します。強豪校にあって1,2年時は全くといっていいほど試合に出られませんでした。3年になってレギュラーとなり、インターハイでは準々決勝で小野を擁する清水商に敗れました。しかし高校選手権ではエース北嶋秀朗とともに活躍します。右サイドからチャンスを作るとともに4ゴールをマーク。決勝で中村俊を擁する桐光学園を破って全国制覇を成し遂げました。 セレクションに合格した日大は関東リーグの2部に所属、低いレベルと劣悪な環境に辟易しますが、4年時に関東大学選抜のメンバーに入り、デンソー杯ではMVPになりました。 そして三浦哲監督に誘われ、01シーズンより名古屋でプレー。当初はストイコヴィッチの後継者として期待されました。3月17日アウェー市原(現千葉)戦でJデビューを果たし、8月11日ホームでのG大阪戦で初ゴールを挙げます。この年は主にサイドでプレーしていました。 翌02シーズンよりSTまたはトップ下へポジションを変え、レギュラーとして29試合出場しました。03シーズンは、新潟へ去った山口素の穴を埋めるべくボランチとしてもプレーしました。 04シーズンより再び攻撃的MFとなり、FWマルケス、ウェズレイに次ぐ5ゴールを挙げると、05シーズンはチームで最多ゴールを挙げ、全試合出場も果たしてJ1残留に貢献しました。 06シーズンも藤田や前線の玉田、杉本、ヨンセンなどと息のあったプレーを見せ、チーム最多の33試合に出場しました。その後3年間、リーグ戦ではノーゴールでしたが、09シーズンの天皇杯決勝では一矢報いるゴールを挙げています。 10シーズンは金崎や闘莉王と攻撃的な選手の相次ぐ加入により、中盤でのバランサーとして円熟したプレーを披露すると共に、8月22日G大阪戦ではミドルを決めます。翌シーズンもG大阪とのホームゲームで2ゴールと、順位が近いライバルの鼻を明かしました。 14シーズンを最後に愛着ある赤いユニフォームを脱いでいます。 J1:342試合30得点 クラブでの安定したプレーが評価され、2006年8月9日オシム監督初陣となったトリニダード・トバゴ戦で途中出場し、27歳で代表デビューを飾りました。 代表記録 1試合 2007年3月1日:新規アップ 2014年12月14日更新 |