長友 佑都(Yuto NAGATOMO)
フルネーム 長友 佑都(ナガトモ ユウト)
国籍 日本 長友
出身地 愛媛県西条市
生年月日 1986・9・12
身長 170cm
体重 68kg
利き足
ポジション DF(LSB)
FK PK  
キャプテン経験  
代表デビュー 2008・5・24
コートジボワール戦
代表背番号
W杯メンバー 10年 14年
ニックネーム ユウト
個人タイトル 09Jリーグベストイレブン
13アジア年間国際最優秀選手賞(AFC)
チームタイトル 10/11コッパ・イタリア
11AFCアジアカップ
所属クラブおよび背番号 出場 得点
08 FC東京 5 29
09 FC東京 5 31
10 FC東京 5 12
10/11 チェゼーナ(イタリア) 5 16
10/11 インテル(イタリア) 55 13
11/12 インテル(イタリア) 55 35
12/13 インテル(イタリア) 55 25
13/14 インテル(イタリア) 55 34
14/15 インテル(イタリア) 55 14
15/16 インテル(イタリア) 55 22
16/17 インテル(イタリア) 55 16
17/18 インテル(イタリア) 55    
小柄ながら当たり負けしないフィジカルと無尽蔵のスタミナを擁する日本代表SB。ライン際での激しいアップダウン、カットインからの右足シュートなど素早い攻守の切り替えや、両サイドの前後をこなす応用力が、どの監督からも重宝される理由です。

愛媛県西条市生まれ。小学1年から神拝SSでサッカーを始めます。ここで県大会ベスト4の実績を作り、6年時に愛媛FCジュニアユースのテストを受けましたが、不合格に終わりました。
そして地元の西条北中に進み、サッカー部に入部。ここでは周囲がそれほど熱心ではなく、自身もその環境に流された時期もありましたが、顧問の姿勢に気を引き締め練習に取り組みます。また、並行して駅伝部にも所属していたため、無尽蔵のスタミナが身についたのです。
そして練習に参加した東福岡へ一般受験で入学します。ここでは3年時に高校選手権へ出場しますが、初戦で大会準優勝になる市立船橋にPK戦の末敗れました。しかし文武両道を実践していたため、明大への指定校推薦枠を得ることができました。
大学入学後に、それまで務めてきた中のポジション(トップ下、ボランチ)から左SBにコンバートされてレギュラーを獲得します。その後ヘルニアを患う苦しい時期を過ごしますが、2年の後半に戦列に復帰して活躍し、大学選抜に選出されました。そして大学の監督が懇意にしている北京五輪代表コーチにコンタクトを取り、五輪予選へ招集されたのです。
そしてFC東京からオファーが届きます。悩んだ末母親の経済的負担を軽くしようと考えたため、大学卒業を待たずしてプロ入りを決意します。2008年3月8日神戸との開幕戦でJデビューし、第10節大宮戦で初得点。ルーキーで29試合3得点と即戦力の働きを見せました。
2年目も31試合に出場。3年連続で2ケタ順位だったチームは自身の加入以来6位、5位と上位に躍進、さらにW杯での卓越した活躍もあってヨーロッパからオファーが届きます。
そしてセリエAに昇格したチェゼーナへレンタル移籍し、開幕ローマ戦でデビュー。2戦目ミランと2戦連続で強豪をゼロに抑え上々の立ち上がりを見せます。チームは時間が経つにつれて低迷しますが、GKアントニオーリらと共にA残留のキーマンとして16試合に先発出場。国際舞台での活躍直後にレオナルド監督率いるインテルへ電撃移籍します。当初はキヴの前にベンチでしたが、3月6日ジェノア戦では途中出場からセリエA初得点を決めます。やがて彼からポジションを奪い、チャンピオンズ・リーグでは内田との対決も実現、国内最終節でも森本の前で2点目を挙げました。国内カップでもローマなどを下してクラブ初タイトルを獲得しました。
2年目は2度の監督交代で低迷してチャンピオンズ・リーグ出場権を逃しましたが、最終的にはカンビアッソに次ぐ35試合に出場しました。3年目はヨーロッパリーグ予選H・スプリト戦、本戦ルビン戦と2点を挙げるものの、上にはいけませんでした。国内リーグではストラマッチョーニ監督が敷く様々な布陣に適応したものの、終盤にケガに泣きました。4年目はマッツァーリ監督により左WBに固定され、開幕から2試合連続で得点を挙げる幸先の良いスタートを切ります。チームの順位はヨーロッパリーグの出場圏内にとどまりましたが、ユヴェントス戦やミラン戦といったビッグマッチで腕章を託されるなど、クラブにおける重要度を飛躍的に高めました。
5年目以降はケガや監督交代もあってレギュラー定着まで苦しみましたが、6年目の終了後に新たにクラブと契約を更新しています。

2007年ユニバーシアードに出場し、2008年北京五輪では2試合に出場しますが、グループリーグ敗退になります。フル代表デビューは3ヶ月前の5月28日コートジボワール戦でした。
2010年W杯予選では6試合に出場、本大会も4試合にフル出場し、エトーやロンメダールといったエースを封じ込め、日本にとって2度目となる16強入りに大きく貢献しました。
2011年アジア杯でも全6試合に出場し、準決勝や決勝でアシストを記録して2大会ぶりの優勝に多大な役割を果たしました。
2014年W杯予選は9試合に出場。その後コンフェデ杯も3試合に先発しますが、クラブでのコンディション不良が響いて本領発揮には至りませんでした。W杯ではリスタートから本田の先制点につながりましたが、香川と組む左サイドをコートジボワールに破られました。コロンビア戦は大敗を喫して終了後に倒れ込み、クラブの僚友グアリンに慰められる場面もありました。
2015年アジア杯も不動の左SBとして4試合に出場しましたが、準々決勝UAE戦で肉離れを起こして走れなくなり、チームもPK戦の末敗れています。
代表記録

2011年1月9日:新規アップ 2017年6月2日更新