村井 慎二(Shinji MURAI) | |||||||||||||||||||||||||||||
フルネーム | 村井 慎二(ムライ シンジ) | ||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 茨城県水戸市 | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1979・12・1 | ||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 174cm | ||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 70kg | ||||||||||||||||||||||||||||
利き足 | 左 | ||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | MF(LMF) | ||||||||||||||||||||||||||||
FK PK | |||||||||||||||||||||||||||||
キャプテン経験 | |||||||||||||||||||||||||||||
代表デビュー | 2005・8・6 中国戦 |
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代表背番号 | 25 | ||||||||||||||||||||||||||||
W杯メンバー | |||||||||||||||||||||||||||||
ニックネーム | シンちゃん | ||||||||||||||||||||||||||||
個人タイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
チームタイトル | |||||||||||||||||||||||||||||
所属クラブおよび背番号 | 出場 | 得点 | |||||||||||||||||||||||||||
98 ジェフ市原 28 | 4 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
99 ジェフ市原 19 | 1 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
00 ジェフ市原 19 | 2 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
01 ジェフ市原 19 | 25 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
02 ジェフ市原 19 | 26 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
03 ジェフ市原 19 | 29 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
04 ジェフ市原 11 | 29 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
05 ジュビロ磐田 14 | 30 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
06 ジュビロ磐田 14 | 11 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
07 ジュビロ磐田 14 | 23 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
08 ジュビロ磐田 14 | 24 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
09 ジュビロ磐田 14 | 24 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
10 ジェフ千葉(J2) 19 | 4 | 1 | |||||||||||||||||||||||||||
11 ジェフ千葉(J2) 19 | 18 | 2 | |||||||||||||||||||||||||||
12 大分トリニータ(J2) 11 | 37 | 5 | |||||||||||||||||||||||||||
13 大分トリニータ 11 | 7 | 0 | |||||||||||||||||||||||||||
14 コラソン千葉 | |||||||||||||||||||||||||||||
独特のステップを刻むドリブルと精度の高いクロスが武器のサイドアタッカー。中に切れ込むプレーはせず、サイドに張ることが多い典型的なアシストマンです。 茨城県水戸市に生まれ、すぐに千葉県千葉市へ引っ越します。さらに山形県に引っ越し、サッカーを本格的に学びました。その後再び千葉県に戻り中学校から市原ユースへ入りました。同期に酒井友之、すぐ下の年代に阿部勇樹、佐藤寿人らがいました。 1998年にトップチームに昇格し、10月31日のホーム広島戦でJリーグデビューを飾ると、直後のアウェーの福岡戦で初ゴールをマークします。幸先のよいスタートを切ったかに思われましたが、その後は伸び悩んで試合に出場することができませんでした。 しかし00シーズンから出場機会に恵まれるようになり、新加入のチェ・ヨンスのゴールをアシストしたり、3年ぶりのゴールを挙げたりするなどの活躍で不動の地位を築きました。 05シーズンに山本監督のオファーを受けて磐田に移籍すると、前田やカレンらFW陣と連携を深めて多くのゴールを演出してレギュラーに定着。翌シーズンには代表戦で左ヒザ前十字じん帯断裂の重傷を負いましたが、07シーズンに復帰して23試合に出場しました。 08シーズンはノーゴール、アシストも3と不本意な結果に終わり、チーム低迷の要因の一つとなりました。09シーズン終了後に6年ぶりに千葉に復帰します。しかし腰痛に悩んで多くの試合を棒に振り、2年目終了後に大分へ新天地を求めます。そしてアウェー徳島戦の1試合2ゴールを含む5ゴールと自己最高の成績を残し、チームを4年ぶりにJ1に導きました。 13シーズンはチームの苦戦と共に自らも出番に恵まれず、契約満了に伴い退団。その後社会人リーグにコーチ兼任として新たに戦いの場を移しています。 2005年8月3日、第2回東アジア選手権の中国戦でフル代表デビュー。アレックスのバックアッパーとしてW杯本大会出場を目指していましたが、2006年5月9日のブルガリア戦の試合中に負傷退場し、本大会出場はなりませんでした。 代表記録 2006年10月12日:新規アップ 2014年12月14日更新 |